2014-11-26 : 23:28 : admin
こんにちは、ロシア語担当のTです。
ドイツへの旅の話でまだ訪れた観光スポットの話をしていませんが、実はイタリアに行った時と同様、ドイツもほとんどの大きな都市をバスで回ったと記憶しています。 ベルリン、ハンブルク、ミュンヘン、ケルン、ドルトムント、デュッセルドルフ、ブレーメンなど、今の私にしてみれば、それぞれの都市のサッカー・チームの活動が気になるところですが、当時はまだそんなにサッカーに興味があったわけではなく、都市の名前はすべてどことなく新鮮な響きがあって、自国の都市の名前と比べてどうしてこんなに雰囲気が違うのかと思っていました。
前回は我々が宿泊していた施設の指導員であるきびしいドイツ人のおばさんの話をしましたが、実は彼女らに対する評価はかなりはっきりと二つに分かれていて、批判された生徒は「なんでわざわざ批判されなきゃいけないの〜?」となって、褒められた生徒は「やっぱりドイツ人のおばさんの指導は最高!」みたいな流れになって、わりと中立的な立場を堅持していた私はどちらの派からも批判されていました。
そして、ウクライナに帰る前日ぐらいになると、上記の二つの流れの人たちが一体になって、なぜかラップスタイルの歌で指導員のおばさんたちに対して滞在期間中の感謝の言葉を表現しました。ロシア語の歌だったので、おばさんたちは当然何が歌われているのかよく分からなかったのでしょうが、まぁ、大まかに言えば「今まではありがとうございました、あなたたちのことを永遠に忘れることはない」という内容のものだったと思います。
いろいろ訪問したドイツの都市で一番印象に残ったのは、ブレーメンです。サッカーのつながりで言いますと、1990年代ごろからウクライナ人の選手が何人かそこのクラブで活躍していたし、今もたしかそのうちの一人がヘッド・コーチをやっていると思います。しかし、そんなことよりおそらく多くの旧ソ連圏の人々にとってブレーメンと言えばまず連想されるのは、グリム童話の「ブレーメン音楽隊」です。さまざまな楽器を上手に演奏する動物たちの物語がソ連時代のアニメになっていて、私は子供の頃にそれをおそらく20回以上見ていると思います。ブレーメンではもちろん実際にその音楽隊には出会っていませんが、アニメの影響もあって街の雰囲気はなんだか大変 芸術的なものに思えました。

イタリア、そしてドイツへの旅の話は今回で終わりにしたいと思います。また何か重要なことを思い出したら、適宜書いて行きます。
ドイツへの旅の話でまだ訪れた観光スポットの話をしていませんが、実はイタリアに行った時と同様、ドイツもほとんどの大きな都市をバスで回ったと記憶しています。 ベルリン、ハンブルク、ミュンヘン、ケルン、ドルトムント、デュッセルドルフ、ブレーメンなど、今の私にしてみれば、それぞれの都市のサッカー・チームの活動が気になるところですが、当時はまだそんなにサッカーに興味があったわけではなく、都市の名前はすべてどことなく新鮮な響きがあって、自国の都市の名前と比べてどうしてこんなに雰囲気が違うのかと思っていました。
前回は我々が宿泊していた施設の指導員であるきびしいドイツ人のおばさんの話をしましたが、実は彼女らに対する評価はかなりはっきりと二つに分かれていて、批判された生徒は「なんでわざわざ批判されなきゃいけないの〜?」となって、褒められた生徒は「やっぱりドイツ人のおばさんの指導は最高!」みたいな流れになって、わりと中立的な立場を堅持していた私はどちらの派からも批判されていました。
そして、ウクライナに帰る前日ぐらいになると、上記の二つの流れの人たちが一体になって、なぜかラップスタイルの歌で指導員のおばさんたちに対して滞在期間中の感謝の言葉を表現しました。ロシア語の歌だったので、おばさんたちは当然何が歌われているのかよく分からなかったのでしょうが、まぁ、大まかに言えば「今まではありがとうございました、あなたたちのことを永遠に忘れることはない」という内容のものだったと思います。
いろいろ訪問したドイツの都市で一番印象に残ったのは、ブレーメンです。サッカーのつながりで言いますと、1990年代ごろからウクライナ人の選手が何人かそこのクラブで活躍していたし、今もたしかそのうちの一人がヘッド・コーチをやっていると思います。しかし、そんなことよりおそらく多くの旧ソ連圏の人々にとってブレーメンと言えばまず連想されるのは、グリム童話の「ブレーメン音楽隊」です。さまざまな楽器を上手に演奏する動物たちの物語がソ連時代のアニメになっていて、私は子供の頃にそれをおそらく20回以上見ていると思います。ブレーメンではもちろん実際にその音楽隊には出会っていませんが、アニメの影響もあって街の雰囲気はなんだか大変 芸術的なものに思えました。




イタリア、そしてドイツへの旅の話は今回で終わりにしたいと思います。また何か重要なことを思い出したら、適宜書いて行きます。
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2014-11-19 : 23:36 : admin
こんにちは、ロシア語担当のTです。ドイツへの旅の話の続きです。
結局プラハで過ごしたのはほんの数時間で、そのあとバスに乗ってドイツに向かいました。当時の私にも、チェコからドイツに入り、国境を越える時の違いがなんとなく分かりました。「国家」という概念は、もちろん私の中ではまだまだはっきりしていなかったですし(正直に言いますと、今もそれほどはっきりはしていませんが)、旅の中でなぜか長い間待たされるところがあったとなんとなく思っていたぐらいですが、考えてみればそれは地理の勉強を実践的にするのに絶好のチャンスでもあったのかもしれません。
そして、ドイツの、森林が豊かなところに着いたのはプラハを出発して10時間ほどあとのことです。私たちが宿泊していたのはイタリアと同じようなところで、普段はおそらくキャンプ場として使われる敷地内にある建物群です。二人部屋や三人部屋が参加した子供たちに適当に割り当てられ、私は名前がDで始まる男子と同じ部屋になりました。部屋の看板を手書きで作る時、「T-Dなんとか」のようなことを書いたと記憶しています。
このドイツでの宿泊施設もイタリアのそれと同様、ご飯の時間や、様々な活動の時間、観光に皆で出かける時間がきっちりと決まっていて、ドイツ人のおばさんたちが怖い顔をして私たち小学生の指導(時間厳守!わがままを言わない!友達をいじめない!など)に当たっていました。しかし、それ以外は特にやることがなく、私がほとんどの時間を読書に使っていました。
今日の部分でもう一つ書いておきたいのは、私が「良い子賞」をもらった時のことです。毎朝起きて歯を磨いてご飯を食べたら、ベッドも自分たちで整えないといけないことになっていました。そしてある日、それぞれがきれいに整えられた布団などを先生たちが見て、一番理想に近いベッドに「賞」をあげることになったのです。そして、私がなぜか一番ベッド作りが上手で得意だと認められ、賞品であるオレンジをもらいました。喜んでいると、友達が「このオレンジはS君が罰則として取られたものだよ」と教えてくれました。
実は毎回食事のあと何かフルーツをもらうのはその時の決まりみたいで、「良い子賞」はオレンジでした。しかし、「悪い子賞」というのもあって、ドイツ人のおばさんたちが言っていたことになかなか耳を傾けなかった子どもにそれが「与えられる」ことになっていました。S君がちょうどいたずらの一番盛んな時期で、彼のオレンジが私のところに渡ってきたわけです。
S氏、ごめんなさい。私は単に几帳面な性格のせいでその日のベッドがきれいに整えることができただけです。悪意なんかはありませんでした。
結局プラハで過ごしたのはほんの数時間で、そのあとバスに乗ってドイツに向かいました。当時の私にも、チェコからドイツに入り、国境を越える時の違いがなんとなく分かりました。「国家」という概念は、もちろん私の中ではまだまだはっきりしていなかったですし(正直に言いますと、今もそれほどはっきりはしていませんが)、旅の中でなぜか長い間待たされるところがあったとなんとなく思っていたぐらいですが、考えてみればそれは地理の勉強を実践的にするのに絶好のチャンスでもあったのかもしれません。
そして、ドイツの、森林が豊かなところに着いたのはプラハを出発して10時間ほどあとのことです。私たちが宿泊していたのはイタリアと同じようなところで、普段はおそらくキャンプ場として使われる敷地内にある建物群です。二人部屋や三人部屋が参加した子供たちに適当に割り当てられ、私は名前がDで始まる男子と同じ部屋になりました。部屋の看板を手書きで作る時、「T-Dなんとか」のようなことを書いたと記憶しています。
このドイツでの宿泊施設もイタリアのそれと同様、ご飯の時間や、様々な活動の時間、観光に皆で出かける時間がきっちりと決まっていて、ドイツ人のおばさんたちが怖い顔をして私たち小学生の指導(時間厳守!わがままを言わない!友達をいじめない!など)に当たっていました。しかし、それ以外は特にやることがなく、私がほとんどの時間を読書に使っていました。
今日の部分でもう一つ書いておきたいのは、私が「良い子賞」をもらった時のことです。毎朝起きて歯を磨いてご飯を食べたら、ベッドも自分たちで整えないといけないことになっていました。そしてある日、それぞれがきれいに整えられた布団などを先生たちが見て、一番理想に近いベッドに「賞」をあげることになったのです。そして、私がなぜか一番ベッド作りが上手で得意だと認められ、賞品であるオレンジをもらいました。喜んでいると、友達が「このオレンジはS君が罰則として取られたものだよ」と教えてくれました。
実は毎回食事のあと何かフルーツをもらうのはその時の決まりみたいで、「良い子賞」はオレンジでした。しかし、「悪い子賞」というのもあって、ドイツ人のおばさんたちが言っていたことになかなか耳を傾けなかった子どもにそれが「与えられる」ことになっていました。S君がちょうどいたずらの一番盛んな時期で、彼のオレンジが私のところに渡ってきたわけです。
S氏、ごめんなさい。私は単に几帳面な性格のせいでその日のベッドがきれいに整えることができただけです。悪意なんかはありませんでした。
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2014-11-12 : 23:25 : admin
こんにちは。ロシア語担当のTです。小学生の時にヨーロッパの二ヵ国を訪れた時の話の続きをしたいと思います。
先週のブログは、プラハの街並みが大変美しかったところで終わりましたが、その美しさは考えてみれば次の二つのことが原因だったのではないかと思います。一つ目は、私はその時イタリアとドイツを訪れるまでは全然海外に行ったことがなく、そこで見る景色がすべて大変珍しく映ったことです。二つ目は、プラハの街中の雰囲気が、当時私が住んでいたウクライナの首都、キエフ周辺の小さな町とあまりにも異なっていたことです。
前者については、当然ながら小学生にとって初めて見る街は、新鮮で、珍しいものとして意識されたために、その「珍しさ」が知らないうちに「美しさ」に変わることがたまにあるのではないかと今になって考えています。また後者は、私の出身地でもある、当時居住していた小さな町は古い通りなどがほとんどなく、どちらかというと工場地帯に近いようなところでした。それもあって、プラハのくねくねとした通りや、どこからともなく漂う(おそらくコーヒーの)苦い香り、開放的な雰囲気のレストランや市民の交流・憩いの場所としての機能を十分に果たしている(ように見える)広い公園…そんなところに来て、魅了されないはずがないと思います。
考えてみれば、現在ウクライナの西部にもプラハと同じような感じの街や地域があります。以前ポーランドなどの一部で、今はウクライナの領土になっている地域では、街中の看板の言語にさえ注目していなければ、自分がいるのはウクライナなのか中央ヨーロッパのEUの加盟国のどこかの国なのか、はっきりと分からないほど雰囲気が似ています。たいていのウクライナ人にとってEUのビザをもらうのに様々な手続きが必要ですし、あまり国外旅行をする余裕のない人なら、ウクライナの西部に行ってコーヒーを楽しんだりするだけで、「本場のヨーロッパ」旅行に来た気分になれるかもしれません。
さて、ドイツへの旅と題したブログであるにもかかわらず、まだほとんどドイツでの滞在の話をしていませんが、また次回以降少しずつ書いてみたいと思います。
先週のブログは、プラハの街並みが大変美しかったところで終わりましたが、その美しさは考えてみれば次の二つのことが原因だったのではないかと思います。一つ目は、私はその時イタリアとドイツを訪れるまでは全然海外に行ったことがなく、そこで見る景色がすべて大変珍しく映ったことです。二つ目は、プラハの街中の雰囲気が、当時私が住んでいたウクライナの首都、キエフ周辺の小さな町とあまりにも異なっていたことです。
前者については、当然ながら小学生にとって初めて見る街は、新鮮で、珍しいものとして意識されたために、その「珍しさ」が知らないうちに「美しさ」に変わることがたまにあるのではないかと今になって考えています。また後者は、私の出身地でもある、当時居住していた小さな町は古い通りなどがほとんどなく、どちらかというと工場地帯に近いようなところでした。それもあって、プラハのくねくねとした通りや、どこからともなく漂う(おそらくコーヒーの)苦い香り、開放的な雰囲気のレストランや市民の交流・憩いの場所としての機能を十分に果たしている(ように見える)広い公園…そんなところに来て、魅了されないはずがないと思います。
考えてみれば、現在ウクライナの西部にもプラハと同じような感じの街や地域があります。以前ポーランドなどの一部で、今はウクライナの領土になっている地域では、街中の看板の言語にさえ注目していなければ、自分がいるのはウクライナなのか中央ヨーロッパのEUの加盟国のどこかの国なのか、はっきりと分からないほど雰囲気が似ています。たいていのウクライナ人にとってEUのビザをもらうのに様々な手続きが必要ですし、あまり国外旅行をする余裕のない人なら、ウクライナの西部に行ってコーヒーを楽しんだりするだけで、「本場のヨーロッパ」旅行に来た気分になれるかもしれません。
さて、ドイツへの旅と題したブログであるにもかかわらず、まだほとんどドイツでの滞在の話をしていませんが、また次回以降少しずつ書いてみたいと思います。
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2014-11-05 : 22:30 : admin
こんにちは。ロシア語担当の T です。今日は前置きなどを書かずに、本題の旅行日記にさっそく入りたいと思います。
前回はバスでプラハまで行ったところで話が終わりましたが、実は先週のブログの最後の2〜3段落を考えている際、当時プラハが首都だった国の正式な名前は、1992年の時点でまだチェコスロバキアだったのか。それとも、すでにチェコとスロバキアに分かれていて、私たちが行っていたのはチェコだったのか、といったようなことで頭を抱えていました。ソ連が崩壊したのは1991年で、私たちがドイツを訪れたのはその翌年ぐらいなので、おそらくすでにチェコだったと思います。
チェコスロバキアがらみで本題とあまり直接関係のない話を思い出してしまったので、少しだけ書かせてください。私は来日してから何人かのスロバキア人およびチェコ人の友達ができて、一緒に長野県の白馬八方のスキーリゾートに何回か行ったことがあります。その時、チェコ人とスロバキア人とではスキー/スノーボードの好みが明らかに分かれていることに気づきました。同行していた友達はチェコ人とスロバキア人それぞれ2人ずつで、母集団のサイズが小さすぎて一般化はできませんが、おそらく一つの傾向として次のことが言えると思います。つまり、スロバキア人がスノーボードに好んで乗ることが多いのに対し、チェコ人はスキーをすることが多いのです。そして、お互いに「ライバル」のもの(スキーもしくはスノーボード)を勧められたら、きっぱりと断るだけでなく、自分が愛用しているほうのメリットをいつまでも熱く語ることができるという点です。
・・・逸れてしまった話をもとに戻しますと、プラハでの滞在で私がもう一つよく覚えているのは、当時のウクライナではなかなか買うことのできなかったアイスクリームです。ソ連時代からウクライナ(共和国)でもアイスクリーム作りが盛んに行われていましたが、いったん西側の諸国に入ってしまうと、それが今まで自分が慣れてきたものと全然違う形をしていることに驚かされます。簡単に言いますと、日本の観光地でよく見る形(コーン型と言いますか)のものですが、私は、あまりの珍しさと新鮮さにびっくりして完食するのに20分ほどかかってしまいました
。味はたしかバニラだったと思います。
このプラハでの短い滞在のもう一つ興味深い記憶として、頭の中にすごく美しい街並みが残っていますが、それについてはまた次回お話しをしたいと思います。
前回はバスでプラハまで行ったところで話が終わりましたが、実は先週のブログの最後の2〜3段落を考えている際、当時プラハが首都だった国の正式な名前は、1992年の時点でまだチェコスロバキアだったのか。それとも、すでにチェコとスロバキアに分かれていて、私たちが行っていたのはチェコだったのか、といったようなことで頭を抱えていました。ソ連が崩壊したのは1991年で、私たちがドイツを訪れたのはその翌年ぐらいなので、おそらくすでにチェコだったと思います。
チェコスロバキアがらみで本題とあまり直接関係のない話を思い出してしまったので、少しだけ書かせてください。私は来日してから何人かのスロバキア人およびチェコ人の友達ができて、一緒に長野県の白馬八方のスキーリゾートに何回か行ったことがあります。その時、チェコ人とスロバキア人とではスキー/スノーボードの好みが明らかに分かれていることに気づきました。同行していた友達はチェコ人とスロバキア人それぞれ2人ずつで、母集団のサイズが小さすぎて一般化はできませんが、おそらく一つの傾向として次のことが言えると思います。つまり、スロバキア人がスノーボードに好んで乗ることが多いのに対し、チェコ人はスキーをすることが多いのです。そして、お互いに「ライバル」のもの(スキーもしくはスノーボード)を勧められたら、きっぱりと断るだけでなく、自分が愛用しているほうのメリットをいつまでも熱く語ることができるという点です。
・・・逸れてしまった話をもとに戻しますと、プラハでの滞在で私がもう一つよく覚えているのは、当時のウクライナではなかなか買うことのできなかったアイスクリームです。ソ連時代からウクライナ(共和国)でもアイスクリーム作りが盛んに行われていましたが、いったん西側の諸国に入ってしまうと、それが今まで自分が慣れてきたものと全然違う形をしていることに驚かされます。簡単に言いますと、日本の観光地でよく見る形(コーン型と言いますか)のものですが、私は、あまりの珍しさと新鮮さにびっくりして完食するのに20分ほどかかってしまいました

このプラハでの短い滞在のもう一つ興味深い記憶として、頭の中にすごく美しい街並みが残っていますが、それについてはまた次回お話しをしたいと思います。
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2014-10-29 : 20:05 : admin
こんにちは、ロシア語担当の T です。朝晩が冷え込む日が続いていますが、昼間は(少なくとも私が住んでいるK市では)まだ快適な秋晴れの場合が多いです。皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
さて、今日のブログはドイツおよびイタリアへ行った時の話の続きです。具体的には、ドイツへの旅について書きたいと思います。ドイツと言いますと、皆さんはまず何を連想するのでしょうか。多くの人はおそらく「ビール」(あるいは、October Fest)、そして日本人と同じような勤勉な国民性、スポーツに詳しい方は、半年ほど前のワールドカップでの代表チームの快挙を思い出すでしょう。
しかし小学生の時に2回ドイツに行った切りの私には、ドイツと言えばまず、太陽の光が届かないほど深い森のことを思い浮かべます。地名こそ忘れましたが、私たちが宿泊していた施設のすぐ近くにはすごく美しい森があって、私の頭の中は「ドイツは森林の豊かな国」というイメージが完全に定着してしまいました。
もう一つ、ドイツへの旅で思い出すのは、なぜかハンドボールです。皆で遊ぶ時間は、ずっとハンドボールばかりやっていました。普段なら、サッカー、バドミントン、テニス、バスケットボールなどをやるのが一般的ですが、ドイツへの旅の時に同行していた体育の先生はハンドボールの大ファンで、私たちにもその魅力を一生懸命伝えようと、(半ば無理やりに)ルールなどを説明して適当にチーム分けをして、ハンドボールをさせていました。しかしその先生の努力もむなしく、私の場合ハンドボールはそれ以降やっていません。
交通手段について簡単に述べておいたほうが良いと考えています。なぜならば、イタリア行きと違ってドイツにはバスで行ったからです。「バスのどこが特別?」という声が聞こえてきそうですが、当時の私にとってバスは長くてもせいぜい40分ほどしか乗らない乗り物で、何日間もバスで移動するのは文字通り大冒険でした。(考えてみれば、日本ではバスのネットワークがだいぶ発達していて、ほぼどこでも問題なく行けるようになっていますね。二十数年前の私がそんなことを聞いたら、よほどショックを受けていたことでしょう。)
ドイツへは、チェコの首都プラハ経由で行きましたが、プラハでの短い滞在の話はまた次回以降したいと思います。
さて、今日のブログはドイツおよびイタリアへ行った時の話の続きです。具体的には、ドイツへの旅について書きたいと思います。ドイツと言いますと、皆さんはまず何を連想するのでしょうか。多くの人はおそらく「ビール」(あるいは、October Fest)、そして日本人と同じような勤勉な国民性、スポーツに詳しい方は、半年ほど前のワールドカップでの代表チームの快挙を思い出すでしょう。
しかし小学生の時に2回ドイツに行った切りの私には、ドイツと言えばまず、太陽の光が届かないほど深い森のことを思い浮かべます。地名こそ忘れましたが、私たちが宿泊していた施設のすぐ近くにはすごく美しい森があって、私の頭の中は「ドイツは森林の豊かな国」というイメージが完全に定着してしまいました。
もう一つ、ドイツへの旅で思い出すのは、なぜかハンドボールです。皆で遊ぶ時間は、ずっとハンドボールばかりやっていました。普段なら、サッカー、バドミントン、テニス、バスケットボールなどをやるのが一般的ですが、ドイツへの旅の時に同行していた体育の先生はハンドボールの大ファンで、私たちにもその魅力を一生懸命伝えようと、(半ば無理やりに)ルールなどを説明して適当にチーム分けをして、ハンドボールをさせていました。しかしその先生の努力もむなしく、私の場合ハンドボールはそれ以降やっていません。
交通手段について簡単に述べておいたほうが良いと考えています。なぜならば、イタリア行きと違ってドイツにはバスで行ったからです。「バスのどこが特別?」という声が聞こえてきそうですが、当時の私にとってバスは長くてもせいぜい40分ほどしか乗らない乗り物で、何日間もバスで移動するのは文字通り大冒険でした。(考えてみれば、日本ではバスのネットワークがだいぶ発達していて、ほぼどこでも問題なく行けるようになっていますね。二十数年前の私がそんなことを聞いたら、よほどショックを受けていたことでしょう。)
ドイツへは、チェコの首都プラハ経由で行きましたが、プラハでの短い滞在の話はまた次回以降したいと思います。
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2014-10-15 : 23:59 : admin
こんにちは、ロシア語担当の T です。先週末日本列島を直撃した台風19号で10年前のことを思い出してしまいました。
私は当時奈良県の天理大学に交換留学生として9月から来日していて、母国に比べれば雨がやや多いことに少しびっくりしていました。友人が「台風」のことを説明してくれると、「日本ってこんなに大変な国だったのかぁ」と考えるようになりました。台風に、地震に、火山の噴火などなど、自然災害の数はウクライナで直面するそれをはるかに上回っています。
長野・新潟周辺の大雪のニュースがウクライナのテレビで流される度に、祖母が、そんな大変な国に来ている私の身をしきりに案じてくれていましたが、最近になってようやく祖母の気持ちが分かったような気がします。
さて、イタリア・ドイツへの旅の話の3回目ですが、今日はイタリアに行った時のことよりも、その準備段階でのことについて書きたいと思います。まずは、当時のソビエト連邦が崩壊し独立したばかりのウクライナの国境を超えての旅でしたので、パスポートを作る必要がありました。その事を耳にしたのは、ちょうど夏休みで私が東ウクライナのハリコフという街(現在東部ウクライナで激戦が繰り返される地域から100〜150キロほど離れたところ)の親戚の家に遊びに行っている時でした。
急きょ「パスポートが必要だ」という連絡を受け、その地方の担当行政機関に行って白黒の写真を取ってもらい、特急レートで2週間ほどでパスポートを作ってもらったおかげで、なんとかイタリアへの出発に間に合いました。
今から考えれば、ちょっとした歴史的な意味をも持つパスポートでもあります。一つの大きな国が崩壊した後、その領土にできた小さな15の国々のうちの一つが、はじめてその国の国民を対象にパスポートを発行することになったわけですから。言ってみれば、そのパスポートは私のアイデンティティーの変化をも表象するものでした。
イタリアに行くことでもう一つよく覚えているのは、はじめて飛行機に乗った時のことです。こんな巨大な鉄の塊がいったいどのような法則、あるいは原理に基いて空を飛べるのでしょうか。一回乗ってみれば、かなりスムーズに飛んでいることで少し安心感を覚えましたが、その「鉄の塊への疑念」は今も飛行機に乗るたびにどうしても浮かんできてしまいます。
来週からは、ドイツの話をしたいと思います。
私は当時奈良県の天理大学に交換留学生として9月から来日していて、母国に比べれば雨がやや多いことに少しびっくりしていました。友人が「台風」のことを説明してくれると、「日本ってこんなに大変な国だったのかぁ」と考えるようになりました。台風に、地震に、火山の噴火などなど、自然災害の数はウクライナで直面するそれをはるかに上回っています。
長野・新潟周辺の大雪のニュースがウクライナのテレビで流される度に、祖母が、そんな大変な国に来ている私の身をしきりに案じてくれていましたが、最近になってようやく祖母の気持ちが分かったような気がします。
さて、イタリア・ドイツへの旅の話の3回目ですが、今日はイタリアに行った時のことよりも、その準備段階でのことについて書きたいと思います。まずは、当時のソビエト連邦が崩壊し独立したばかりのウクライナの国境を超えての旅でしたので、パスポートを作る必要がありました。その事を耳にしたのは、ちょうど夏休みで私が東ウクライナのハリコフという街(現在東部ウクライナで激戦が繰り返される地域から100〜150キロほど離れたところ)の親戚の家に遊びに行っている時でした。
急きょ「パスポートが必要だ」という連絡を受け、その地方の担当行政機関に行って白黒の写真を取ってもらい、特急レートで2週間ほどでパスポートを作ってもらったおかげで、なんとかイタリアへの出発に間に合いました。
今から考えれば、ちょっとした歴史的な意味をも持つパスポートでもあります。一つの大きな国が崩壊した後、その領土にできた小さな15の国々のうちの一つが、はじめてその国の国民を対象にパスポートを発行することになったわけですから。言ってみれば、そのパスポートは私のアイデンティティーの変化をも表象するものでした。
イタリアに行くことでもう一つよく覚えているのは、はじめて飛行機に乗った時のことです。こんな巨大な鉄の塊がいったいどのような法則、あるいは原理に基いて空を飛べるのでしょうか。一回乗ってみれば、かなりスムーズに飛んでいることで少し安心感を覚えましたが、その「鉄の塊への疑念」は今も飛行機に乗るたびにどうしても浮かんできてしまいます。
来週からは、ドイツの話をしたいと思います。
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2014-10-08 : 23:17 : admin
ロシア語担当の T です、こんにちは。朝晩が涼しくなってきましたが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
さて、今日は先週の話の続きを書きたいと思います。実はタイトルのテーマに関しては、最初はそれほどたくさん書くつもりはありませんでした。イタリアの話を少しだけして、その後はドイツに行った時のことにふれて・・・しかしながら、Toko さんが新しくカテゴリーを作成してくださったので、5〜6回ほどにわたって書いてみたいと思います。
今日はイタリアに滞在した時に行ってきた観光所の話を書くと宣告していましたが、正直に言いますと・・・20年以上前のことですので、その時はどこに行ったのかほとんど覚えていません。観光名所の記憶が、昼食に白ワインが出た記憶ほど鮮明ではないことは、行き先が面白くなかったわけではなく、当時の私にはそれらの素晴らしさがまだ十分に理解できていなかったと推測しています。
行き先を苦労(?)して思い出してみますと、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、バチカン(ローマ)など、おそらく2〜3日に一回ほどバスに乗ってどこかに出かけていたと思います。そんなおぼろげな記憶の中でも印象に残っているのは、バチカンで当時のローマ法王の演説を聞いたことと、フィレンツェの博物館がすごく混んでいたこと、そしてヴェネツィアという街が、ウクライナ人の私からすると、とてつもなく美しかったことです。
順番に述べていきますと、ローマ法王の演説はその内容よりも雰囲気がすごかった気がします。(そもそもロシア語やウクライナ語しか分からない当時の私にとっては、その内容を理解することは事実上不可能でしたが。)大勢の人が集まっている広場が建物に囲まれ、そのうちの一つのバルコニーからすごく小さく見える一人が話し始めると、広場で隣の人の息していることが聞こえるほど周りが静かになって、皆、精一杯話に聞き入っていました。これは何か重大なことが起きているのだと私たち小学生の誰もが思っていたでしょう。
フィレンツェは、訪問時間が5時間のうち、街の有名な博物館に入るための行列に並ぶのに2時間を使ってしまいました。博物館の中はさすがに立派な芸術品ばかりで、今の私からすれば現在ならもっといろいろ楽しめたはずなのに・・・と思ってしまいます。そして、博物館以外にどこに行ったのかはあまり覚えていませんが、街全体としてはすごく開放的な雰囲気だったと記憶しています。
あるいは、開放的であることはイタリアの街の多くの一般的な特徴なのかもしれません。考えてみれば、ヴェネツィアもこのような定義にぴったりと当てはまります。そして、そんな開放的なヴェネツィアでは我々小学1年生がなぜか特に興奮したのは、かのヴェネツィアン・グラスです。それが大変素晴らしいもので世界中の人々がその製品を購入するのに激しく競い合っている噂を誰が最初に流したのかはちょっと確かではありませんが、私は友達にばれないようにヴェネツィアン・グラスの工場の入り口付近に見つけた何かの製品の欠片をポケットに入れる時の気持ちは、幸福感そのものでした。
その欠片が、私が本当にイタリアに行ったことを無言のまま証明してくれているかのように、現在もキエフのアパートのどこかに眠っています。
さて、今日は先週の話の続きを書きたいと思います。実はタイトルのテーマに関しては、最初はそれほどたくさん書くつもりはありませんでした。イタリアの話を少しだけして、その後はドイツに行った時のことにふれて・・・しかしながら、Toko さんが新しくカテゴリーを作成してくださったので、5〜6回ほどにわたって書いてみたいと思います。
今日はイタリアに滞在した時に行ってきた観光所の話を書くと宣告していましたが、正直に言いますと・・・20年以上前のことですので、その時はどこに行ったのかほとんど覚えていません。観光名所の記憶が、昼食に白ワインが出た記憶ほど鮮明ではないことは、行き先が面白くなかったわけではなく、当時の私にはそれらの素晴らしさがまだ十分に理解できていなかったと推測しています。
行き先を苦労(?)して思い出してみますと、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、バチカン(ローマ)など、おそらく2〜3日に一回ほどバスに乗ってどこかに出かけていたと思います。そんなおぼろげな記憶の中でも印象に残っているのは、バチカンで当時のローマ法王の演説を聞いたことと、フィレンツェの博物館がすごく混んでいたこと、そしてヴェネツィアという街が、ウクライナ人の私からすると、とてつもなく美しかったことです。
順番に述べていきますと、ローマ法王の演説はその内容よりも雰囲気がすごかった気がします。(そもそもロシア語やウクライナ語しか分からない当時の私にとっては、その内容を理解することは事実上不可能でしたが。)大勢の人が集まっている広場が建物に囲まれ、そのうちの一つのバルコニーからすごく小さく見える一人が話し始めると、広場で隣の人の息していることが聞こえるほど周りが静かになって、皆、精一杯話に聞き入っていました。これは何か重大なことが起きているのだと私たち小学生の誰もが思っていたでしょう。
フィレンツェは、訪問時間が5時間のうち、街の有名な博物館に入るための行列に並ぶのに2時間を使ってしまいました。博物館の中はさすがに立派な芸術品ばかりで、今の私からすれば現在ならもっといろいろ楽しめたはずなのに・・・と思ってしまいます。そして、博物館以外にどこに行ったのかはあまり覚えていませんが、街全体としてはすごく開放的な雰囲気だったと記憶しています。
あるいは、開放的であることはイタリアの街の多くの一般的な特徴なのかもしれません。考えてみれば、ヴェネツィアもこのような定義にぴったりと当てはまります。そして、そんな開放的なヴェネツィアでは我々小学1年生がなぜか特に興奮したのは、かのヴェネツィアン・グラスです。それが大変素晴らしいもので世界中の人々がその製品を購入するのに激しく競い合っている噂を誰が最初に流したのかはちょっと確かではありませんが、私は友達にばれないようにヴェネツィアン・グラスの工場の入り口付近に見つけた何かの製品の欠片をポケットに入れる時の気持ちは、幸福感そのものでした。
その欠片が、私が本当にイタリアに行ったことを無言のまま証明してくれているかのように、現在もキエフのアパートのどこかに眠っています。
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2014-10-01 : 23:59 : admin
こんにちは。ロシア語担当の T です。
今日から10月ですね。今日は東海道新幹線開業50周年の日、そしてウクライナでは先生(教師)の日、またコーヒー豆を売っている とある店のチラシには「コーヒーの日」と書いてありました。そう言えば、昨日は「翻訳者・通訳者の日」および「図書館職員の日」だったみたいです。それぞれの関係者の皆さん、おめでとうございます。
月曜日の Ayako さんのブログを読んで私も昔イタリアとドイツに行ったことを思い出したのですが、今日から数回のブログのテーマはその旅の記憶・感想について書いてみたいと思います。さきほど「昔」と書きましたが、それは20以上前のことで、イタリアに行ったのはたしか1991年の秋ごろで、ソ連が崩壊しウクライナを含めそれぞれの共和国が独立を得ようとしていたころです。
イタリアに行ったのは小学校1年生、ドイツに行ったのは2回、2年生および3年生の時です。(2011年3月9日付けのブログ「外国へ旅することについて」でも、チェルノブイリの話を書いていた時に少しだけその小学生の時の記憶にふれたと思います。)ドイツは確か長いバス旅で、イタリアは快適な飛行機での移動だったと記憶しています。
ドイツへの旅の詳しい話は再来週以降書いてみたいと思いますが、今日は23年前のイタリアについて今でも印象に残っていることを書きます。まず第一に、毎日の昼食に白ワイン(ごく少量ですが)が欠かさず出ていたことが印象的でした。ウクライナではもちろんそれ以前にアルコールを口にしたことがないし、どうしてこの酸っぱい飲み物を飲まなければいけないと小学生ながら不思議に思っていましたが、そのうち慣れてきて友達と乾杯をするのがすごく楽しいことになってきました。
第二に、私たちが泊まっていたのはチェゼナティコという海辺の街のサナトリウムのようなところで、つい最近そこはザッケローニ元日本代表の監督のゆかりの地でもあることを知りました。おそらくイタリア政府もしくはイタリアのどこかのNPO(NGO)の支援を受けて、チェルノブイリ事故で被害を受けた私たちの滞在が可能になったと思いますが、毎日の過ごし方は実に寛いだものでした。海でたっぷり遊んで、ご飯をたくさん食べて、ひたすら観光に出かけて寝るだけの日々でした。その時 訪れた都市については来週書きますが、もう一つ印象に残ったことは、私および周りの人たちが皆すごく日焼けをしてしまったことです。ソ連では全然手に入らなかった日焼け止めの存在を知ったのはそれから10数年後のことです。当然のことと言えば当然ですが・・・
アドリア海に沈む夕日は、今でも私の記憶の奥に鮮明に残っています。
今日から10月ですね。今日は東海道新幹線開業50周年の日、そしてウクライナでは先生(教師)の日、またコーヒー豆を売っている とある店のチラシには「コーヒーの日」と書いてありました。そう言えば、昨日は「翻訳者・通訳者の日」および「図書館職員の日」だったみたいです。それぞれの関係者の皆さん、おめでとうございます。
月曜日の Ayako さんのブログを読んで私も昔イタリアとドイツに行ったことを思い出したのですが、今日から数回のブログのテーマはその旅の記憶・感想について書いてみたいと思います。さきほど「昔」と書きましたが、それは20以上前のことで、イタリアに行ったのはたしか1991年の秋ごろで、ソ連が崩壊しウクライナを含めそれぞれの共和国が独立を得ようとしていたころです。
イタリアに行ったのは小学校1年生、ドイツに行ったのは2回、2年生および3年生の時です。(2011年3月9日付けのブログ「外国へ旅することについて」でも、チェルノブイリの話を書いていた時に少しだけその小学生の時の記憶にふれたと思います。)ドイツは確か長いバス旅で、イタリアは快適な飛行機での移動だったと記憶しています。
ドイツへの旅の詳しい話は再来週以降書いてみたいと思いますが、今日は23年前のイタリアについて今でも印象に残っていることを書きます。まず第一に、毎日の昼食に白ワイン(ごく少量ですが)が欠かさず出ていたことが印象的でした。ウクライナではもちろんそれ以前にアルコールを口にしたことがないし、どうしてこの酸っぱい飲み物を飲まなければいけないと小学生ながら不思議に思っていましたが、そのうち慣れてきて友達と乾杯をするのがすごく楽しいことになってきました。
第二に、私たちが泊まっていたのはチェゼナティコという海辺の街のサナトリウムのようなところで、つい最近そこはザッケローニ元日本代表の監督のゆかりの地でもあることを知りました。おそらくイタリア政府もしくはイタリアのどこかのNPO(NGO)の支援を受けて、チェルノブイリ事故で被害を受けた私たちの滞在が可能になったと思いますが、毎日の過ごし方は実に寛いだものでした。海でたっぷり遊んで、ご飯をたくさん食べて、ひたすら観光に出かけて寝るだけの日々でした。その時 訪れた都市については来週書きますが、もう一つ印象に残ったことは、私および周りの人たちが皆すごく日焼けをしてしまったことです。ソ連では全然手に入らなかった日焼け止めの存在を知ったのはそれから10数年後のことです。当然のことと言えば当然ですが・・・
アドリア海に沈む夕日は、今でも私の記憶の奥に鮮明に残っています。
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