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# インディラ・ガンディーの言葉(番外編)
さふらんです。新緑の季節ですね。
私がよく行く山では春の野草もまだ盛りで、春と初夏の香りが混ざり「人いきれ」ならぬ「緑いきれ」がむんむんしています。さて、今日はインディラ・ガンディーの言葉シリーズの番外編として、私が個人的に心に留まったいくつかの言葉を紹介します。

“Excellence:
Excellence does not necessarily mean doing extraordinary things. It is judged equally by doing ordinary things extraordinarily well.”
― 優秀であるということ
必ずしも、何か素晴らしいことを成し遂げることが優秀さとは限らない。ありふれたことを素晴らしいやり方で行うこともまた優秀さである。 ―

“Grandchildren:
If I am with them I have the time, provided they have the time. You know, children are very busy people.”
― 孫たち
もし私が孫たちと一緒にいたら、それは私にそれだけの時間の余裕があるということ。でもそのためにはまず孫たちの方に時間がなければ。子どもというのはとても忙しい人種だから。 ―

“Values:
Any search for values will have to find the right balance between personal freedom and social obligation.”
― 価値
どのような価値の探究においても、個人の自由と社会への責任の間の正しいバランスが見出されねばならない。 ―

“Language:
The growth of a language depends upon the quality of thought that is expressed through it”
― 言葉
ある言葉がどのように発展するかは、その言葉によって表現される思想の質による。 ―

“Happiness:
Happiness is giving of you best to something you believe in”
― 幸福
幸福とは、自らの持つ最良のものを、信じるものに捧げることである。 ―

こうして見ると、インディラ・ガンディーという女性は本当に示唆に富んだ言葉を紡ぐ名手だったのだなと改めて思います。

次回からは通常?シリーズのインドよもやま話にもどります。

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# インディラ・ガンディーの言葉(4)
 こんにちは。さふらんです。田に水が入り麦の青い穂が揺れるさわやかな季節になりました。今日はインディラ・ガンディーの言葉、最終回です。

《不死鳥インディラ》
 前回は、会議派が下野し、インディラ本人も逮捕されてしまったところで終わっていました。このときインディラはすでに60歳でしたが、ここで退く彼女ではありませんでした。1980年に行われた総選挙では会議派が再び政権を奪還、インディラは自身三度目となる首相として就任します。政治生命の終わりと言っても過言でない状態から見事に表舞台に復活したインディラは、不死鳥と例えられました。
 1984年6月、インディラはブルースター作戦と名付けられた軍事作戦を敢行しました。この作戦は、シク教分離主義者がシク教の総本山である黄金寺院に立てこもったことを受け、インディラがインド軍を投入しての事態収拾を図った作戦でしたが、双方合わせて500名以上の死者を出す悲惨な結末となりました。シク教コミュニティーのインド政府、そしてインディラに対する反感が強まり、側近はインディラにシク教徒の警護官の解雇を進言しますが、彼女は耳を貸さなかったといいます。

《インディラの死》
 しかし作戦の4カ月後の1984年10月、側近の危惧は現実になりました。インディラは、本来彼女を護衛すべき警護官の手で暗殺されてしまったのです。鉄の女、不死鳥と呼ばれたインディラの最期でした。
 死を迎えるインディラの脳裏をよぎったのはどんな思いだったでしょう。一説によると、当時インディラは既に自らの死を覚悟していたといいます。今日紹介するのはそれを裏付けるかのような、インディラが生前に自らの死について記した言葉です。

“If I die a violent death, as some fear and a few are plotting, I know the violence will be in the thought and action of the assassin, not in my dying, for no hate is dark enough to overshadow the extent of my love for my people and my country; no force is strong enough to divert me from my purpose and my endeavour to take this country forward”
「私が暴力的な死を迎えることになったとしても...それを恐れる者もいれば、中にはそれを(実際)企んでいる者もいるように...もし私が暴力的な死を迎えることになったとしても、暴力は暗殺者の思考や行為に存するのであって、私の死そのものにあるわけではない。なぜならば、どれほど深い憎しみも、私の祖国への愛、民への愛に陰りを落とすことはできないからだ。どのような力をもってしても、この国を発展させるという使命やそのための努力から私を引き離すことはできない。」

 インディラ・ガンディーの言葉を鍵に、彼女の人生をかけ足で辿ってみました。本編は今回で終わりですが、できれば次回は番外編として、個人的に心に留まったその他のインディラの言葉をいくつか紹介してみたいと思います。

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# インディラ・ガンディーの言葉(3)
こんにちは。さふらんです。今日は政治家としてのインディラの姿を追ってみたいと思います。

《首相就任、まさかの展開》
インディラの父であるネルーが首相在任中に亡くなった時、その後を継いだのはシャストリでした。しかしながらそのシャストリも、わずか2年後、またもや在任中に急逝してしまいます。この時、会議派重鎮を中心とするインドの政治エリート達はインディラに首相として政治の表舞台に立つよう、強く働きかけました。

この背後には、ネルーの一人娘として強力な「ブランド」力を持ち、なおかつ意のままに操ることができるインディラを頭に戴き、傀儡政権を樹立しようという目論見があったと言われています。しかしながら、そんな彼らの思惑は見事に裏切られることになります。インディラは首相に就任するや否や驚異の行動力を発揮し、怒濤の政治生活に入っていくのです。

《数々の政策》
首相となったインディラはまず、融資獲得のための通貨切り下げや、大手銀行の国有化と言った経済政策をおし進めます。このうち反米政策の一環でもあった銀行国有化には会議派内から大きな反対が起こり、事態は会議派の分裂にまで発展します。1971年にはバングラデシュの独立戦争に介入する形で第三次印パ戦争が勃発、これに僅か数週間で勝利。インド亜大陸におけるインドの覇権を盤石にするとともに、アメリカが肩入れしていたパキスタンとの戦争を経て、インドの社会主義色はますます強まっていきました。

独立を果たしたものの、インドの経済状態、特に貧困問題は深刻でした。インディラの「鉄の女」ぶりを語る際によく引き合いに出される家族計画政策(特に貧困層を対象とした断種政策)も、その背景にあったのは人口過剰がインドの貧困問題を助長しているとの認識でした。1971年の総選挙をインディラは、「貧困追放」をスローガンに戦い、勝利を収めます。
《インディラ、還暦で迎えるピンチ》
しかしながら、一見インディラへの追い風のように見えるこの選挙は、彼女の政治生命を脅かす火種をはらんでいました。この時のインディラの選挙活動に違法行為があったとの糾弾がなされ、実際に1975年、最高裁によりインディラ有罪の判決が下されたのです。これを受けたインディラは21カ月もの間、インドを「非常事態宣言」下におき、対抗勢力の排除を強行します。

そのようなインディラの姿に反旗を翻したのは、それまで彼女を支えていたインド国民でした。1977年の選挙でインディラ率いる会議派(インディラ派)は惨敗を喫します。インド独立の礎となり、独立後も一貫して政権を担ってきた国民会議派が、ここにきてついに初めて下野し、齢60歳のインディラも逮捕されてしまいます。


今日は、インディラが「会議派(Congress)」について語った言葉を引用します。インドという国家にとって、国を独立に導き、その後も30年に亘って政権に就いていた国民会議派という組織が特別な政党であることは明らかですが、インディラにとっても、生まれた時から身近にあり、その中で育ったと言っても過言でない会議派は政党や組織を超えた特別な存在であったことでしょう。その会議派を自らの手で分裂させ、下野させてしまったインディラは、果たしてどのような思いを抱いていたのでしょうか。

“Congress:
With all my love and pride in the Congress organization, I must say that there is something which is bigger than the Congress, and that is our country and our people. And the day we forget that and talk only about our party, that day will see the weakening of the party.”

「私が会議派に対して抱いている全ての愛と誇りを以てしても、世の中には会議派より大切なものがあると言わざるをえない。それは我々の国であり、その民である。我々がこのことを忘れ、我々の政党についてばかり語るようになった時にこそ、会議派の弱体化が始まるだろう」

次回は、インディラの驚異の復活とその死について書きたいと思います。

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# インディラ・ガンディーの言葉(2)
こんにちは。金沢もすっかり暖かくなりました。勢い余って冷やし中華を作ってしまった さふらんです。さて、今回はインディラ・ガンディーの言葉、第2弾です。

(結婚と出産、そしてインドの独立)
多感な思春期をインド独立運動のまっただ中で過ごしたインディラは、日本語教育でも有名なコルカタ郊外のシャンティニケタン・カレッジで学んだ後、英国オクスフォード大学に進みます。そして1942年、欧州で出会ったインド人青年、フェローズ・カーン(後にガンディーに改姓)と25 歳で結婚しました。異教徒(※1)との、しかも恋愛結婚とあり、保守的なヒンドゥー・コミュニティーからは大きな批判を浴び、父ネルーさえもがこれに難色を示しましたが、マハトマ・ガンディーの仲介も得、それらの反対圧力を押し切った形での結婚でした。「インディラ・ガンディー」の誕生です。その後1944年にラジブ、1946年にサンジャイと二人の息子に恵まれ、家庭生活という意味では、おそらくこの頃がインディラにとって最も幸せな時期だったのではないでしょうか。

1947年8月15日、インディラが30歳の時にインドは待望の独立を果たします。初代首相に就任したのは父のジャワハルラル・ネルーでした。夫フェローズも国会議員として政治に身を捧げます。独立の喜びと建国の意気に湧く新生インドの熱気の中、多忙になったフェローズとインディラはすれ違いを重ね、徐々にその夫婦関係はさめたものになっていきます。

(愛する人々の喪失)
皮肉にも、そんな二人の気持ちを再び近づけたのはフェローズの病でした。1958年に倒れたフェローズは、インディラの献身的な介護も空しく1960年に亡くなります。そして追い討ちをかけるように1964年、インディラの人生に大きな影響を与えたネルーもこの世を去ります。残念なことに、『インディラ・ガンディーの言葉(Indira Gandhi – Selected Sayings)』には、政治家、あるいは公人としてのインディラの言葉が多く選ばれており、彼女の個人的な感情を伺わせる言葉はほとんど見当たりません。その中にあって、「悲しみ」と題された次の言葉には、激動の時代を生きた一人の人間としてのインディラの精神世界が垣間見え、深く心を打たれます。そして、乗り越えられない悲しみを持つ人にとっては救いとなる言葉でもあるように思えます。少し長くなりますが全文を紹介します。

“Sorrow:
One can overcome hate, envy, greed and other such negative and self-destroying emotions. But sorrow is something else. It can be neither forgotten nor overcome. One has to learn to live with it, to absorb it into one’s being, as a part of life”

「人は、憎しみや嫉妬、欲望といった後ろ向きで破滅的な感情を克服することはできる。でも悲しみだけは別だ。悲しみは、忘れ去ることも克服することもできない。人は悲しみと共に生きる術を、それを人生の一部として自らの中に取り込む術を身につけていかなくてはならない。」

次回はインディラの首相時代について書きたいと思います。

※1 ネルー家がヒンドゥーのブラミン階級に属していたのに対し、フェローズは父がムスリム、母はゾロアスター教という家庭の出身。

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# インディラ・ガンディーの言葉(1)
昨日に引き続き、さふらんです。
春めいてきたと思ったらまた寒くなりましたね。外は雪。やかんがストーブの上でたてる、コンコンという音を聞きながらパソコンに向かう私の手元に、Indira Gandhi – Selected Sayings という小さな一冊の本があります。

焦げ茶色の表紙に金文字が打たれた魅力的な装丁で、1、2ページ毎に1つのテーマとインディラ・ガンディーの短い言葉が記されています。
少し唐突な感があるかもしれませんが、今回から何度かにかけて、インド唯一(現在のところ)にして最強の女性首相であったインディラ・ガンディーの人生を辿りつつ、この本の中から彼女の言葉をいくつか紹介してみたいと思います。

《誕生から少女時代》
インディラ・ガンディー(以下インディラ)は1917年、後に初代インド共和国首相となったジャワハルラル・ネルーの一人娘として生まれました。

1917年と言えばインドでは独立運動が盛り上がってきた頃です(※1)。その中心人物の家庭に生まれたことで、インディラの人生はインドの歴史と深く結びついていくことになります。

独立の志に燃える大人達の喧々囂々の議論に触れる機会もあったでしょうし、父親が何度も投獄されたり、獄中の父親から壮大なスケールの手紙(『父が子に語る世界歴史』)が届いたり、インディラが送った少女時代はなかなか過激なものだったと推測されます。

なお、インディラの名前には、あのマハトマ・ガンディーと同じ「ガンディー」が入っていますが、彼との血縁関係はありません。とは言え、父ネルーも、後にインディラの夫となるフェローズ(※2)も、ガンディーとは深い縁があり、少女時代のインディラとガンディーのツーショットも残っています。
今日はインディラが自分自身(Herself)について述べた言葉を引用します。
彼女が、ただエリートの家に生まれ甘やかされて育ったお嬢様ではなかったことが伺える言葉であり、首相時代に断行した厳しい政策を彷彿とさせる言葉でもあります。

“I have many faults. But panic and fear do not belong to my character. Whatever I do, I do very calmly and coolly, after giving it serious thought. ”

「私には多くの欠点がありますが、パニックに陥ることと、何かを恐れることは、私の性格上ありえません。何をするにせよ、私はそれについて熟考の上で非常に冷静沈着に行います」

次回はインドの独立とインディラについて書きたいと思います。

※1  後に独立運動の中心組織となった国民会議派の成立が1885年、マハトマ・ガンディーが指揮した最初の大衆独立運動(mass movement)が1919–1922年
※2 元々は違う名字だったフェローズが改姓してフェローズ・ガンディーとなり、そのフェローズと結婚したインディラの姓もガンディーとなった


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