2015-01-23 : 23:59 : admin
2013-03-26 : 19:09 : admin
Serenaです。本日は突然のご指名で、再びこちらに寄稿させていただくことになりましたが、急なことでトピックがなかなか思い浮かばず…。
軽い「おしゃべり」のようなつもりの短い話を2つご紹介します。「なるほどちょっと面白いな」とでも「こんなバカなことをしょっちゅう考えているのかな」とでも思っていただき、クスッと笑っていただければ幸いです。
<その1>
在宅で行う翻訳の仕事は孤独な作業で、ときには丸一日誰ともしゃべっていない、ということがあります。またときには、丸一日パソコンの画面としゃべっていたり……?こうなると、ちょっと危険信号ですね。ともすれば孤独で煮詰まってしまいがちな仕事では、仕事中に発見したちょっとしたことにも面白さを感じて気分転換することも大事だと思います。
そんなわけで、先月請け負った仕事でイタリアの作曲家ヴェルディによるオペラ「オテッロ」の演出家のインタビュー映像(イタリア語)を日本語に訳していて、途中で脱線して1人遊びで連想ゲームをしてみました。
そのインタビューでは、オペラの舞台美術について、色の扱いの意図を尋ねられた演出家が「赤は珊瑚の色であり、珊瑚はキリストの流した血の象徴とされている」と語っています。ここから先が、つらつらと私が考えたことです。
→ 血はイタリア語でsangue(サングエ)。つまり、発音してみると、音が珊瑚(サンゴ)に似ているではないか!
→ 今、日本で珊瑚と言えば、『abさんご』。著名な翻訳家でエッセイや書評も数多く発表していらっしゃる鴻巣友季子さんが、『abさんご』の書評で「題名はabcを意識し「さんご」にはcoralの頭文字(c)が潜んでいる」という分析を書いていらした!
→ abcのcは、イタリア語読みすれば「チ」だ!つまり、ここで話が「血」にまた戻る。
……「話が戻る」といっても、なんのことはない、私がその時やっていた仕事にたまたまこじつけただけですし、もちろん上記のつらつらした連想には何の深い意味や言語学的な考察があるわけでもありません。でも、こんな風に「言葉」や「音」について、ふとした発見をしたり、言葉遊びをしたりするのは楽しいことだと思いませんか?
<その2>
次はFacebookに投稿されていたZDF(ドイツ国営放送)によるジョークです。最近話題になったばかりの「コンクラーベ」にまつわるものです。日本では公共の放送局がこのように宗教に関することを冗談めかしてFacebookに投稿するなんて、まず考えられませんよね。
<バチカンの煙突からの合図>
白い煙が上がる → 新教皇決定
黒い煙が上がる → 新教皇未決定
とてもたくさんの白い煙が上がる → シュミット元首相登場
とてもたくさんの黒い煙が上がる → システィーナ礼拝堂炎上
風船がいくつも上がる → 子どもの誕生祝い
鳩が何羽も上がる → 結婚祝い
レーザービームが上がる → アフター・コンクラーベ・クラブ
まっ黒い身なりの男が上がる → 煙突掃除屋さん
こうもりが何羽も上がる → 地下室の扉の閉め忘れ
巨大花火が上がる → ミサのワインの飲み過ぎ
聖パウロが現れる → 奇跡
なおこれはもちろん原文はドイツ語で、それを私が試訳したのですが、残念ながらドイツ語の単語ならではの「ウマい」言葉遊びになっている部分をどうしても伝え切れていない気がしています。
どういうことかというと、本当はすべての項目の「上がる」に「aufsteigen」という共通の動詞が使われるからこそ面白さがあるわけなので、日本語訳でも全てを同じ動詞で統一したかったのです。でも「聖パウロが現われる」というのだけは、「上がる」にするのは不自然なので、「現われる」としました。(なお注釈を付け加えると、シュミット元首相は片時も煙草を手から離さないチェーンスモーカーで有名だそうです)。
以上、今回の投稿は、「言葉遊び2題」でした。
こういうことに楽しさを感じたり「クスッ」とほほ笑んだりする人、そしてその「クスッ」を誰かと共有したくて一生懸命訳そうとしてみたりするタイプ(私)って、翻訳や語学教師など言葉に関わる仕事をしている人には多いように思います。
皆さんも、日々読むものや聞く言葉の中に「クスッ」とした発見があった時は、是非周りにも広めてみてください。
軽い「おしゃべり」のようなつもりの短い話を2つご紹介します。「なるほどちょっと面白いな」とでも「こんなバカなことをしょっちゅう考えているのかな」とでも思っていただき、クスッと笑っていただければ幸いです。
<その1>
在宅で行う翻訳の仕事は孤独な作業で、ときには丸一日誰ともしゃべっていない、ということがあります。またときには、丸一日パソコンの画面としゃべっていたり……?こうなると、ちょっと危険信号ですね。ともすれば孤独で煮詰まってしまいがちな仕事では、仕事中に発見したちょっとしたことにも面白さを感じて気分転換することも大事だと思います。
そんなわけで、先月請け負った仕事でイタリアの作曲家ヴェルディによるオペラ「オテッロ」の演出家のインタビュー映像(イタリア語)を日本語に訳していて、途中で脱線して1人遊びで連想ゲームをしてみました。
そのインタビューでは、オペラの舞台美術について、色の扱いの意図を尋ねられた演出家が「赤は珊瑚の色であり、珊瑚はキリストの流した血の象徴とされている」と語っています。ここから先が、つらつらと私が考えたことです。
→ 血はイタリア語でsangue(サングエ)。つまり、発音してみると、音が珊瑚(サンゴ)に似ているではないか!
→ 今、日本で珊瑚と言えば、『abさんご』。著名な翻訳家でエッセイや書評も数多く発表していらっしゃる鴻巣友季子さんが、『abさんご』の書評で「題名はabcを意識し「さんご」にはcoralの頭文字(c)が潜んでいる」という分析を書いていらした!
→ abcのcは、イタリア語読みすれば「チ」だ!つまり、ここで話が「血」にまた戻る。
……「話が戻る」といっても、なんのことはない、私がその時やっていた仕事にたまたまこじつけただけですし、もちろん上記のつらつらした連想には何の深い意味や言語学的な考察があるわけでもありません。でも、こんな風に「言葉」や「音」について、ふとした発見をしたり、言葉遊びをしたりするのは楽しいことだと思いませんか?
<その2>
次はFacebookに投稿されていたZDF(ドイツ国営放送)によるジョークです。最近話題になったばかりの「コンクラーベ」にまつわるものです。日本では公共の放送局がこのように宗教に関することを冗談めかしてFacebookに投稿するなんて、まず考えられませんよね。
<バチカンの煙突からの合図>
白い煙が上がる → 新教皇決定
黒い煙が上がる → 新教皇未決定
とてもたくさんの白い煙が上がる → シュミット元首相登場
とてもたくさんの黒い煙が上がる → システィーナ礼拝堂炎上
風船がいくつも上がる → 子どもの誕生祝い
鳩が何羽も上がる → 結婚祝い
レーザービームが上がる → アフター・コンクラーベ・クラブ
まっ黒い身なりの男が上がる → 煙突掃除屋さん
こうもりが何羽も上がる → 地下室の扉の閉め忘れ
巨大花火が上がる → ミサのワインの飲み過ぎ
聖パウロが現れる → 奇跡
なおこれはもちろん原文はドイツ語で、それを私が試訳したのですが、残念ながらドイツ語の単語ならではの「ウマい」言葉遊びになっている部分をどうしても伝え切れていない気がしています。
どういうことかというと、本当はすべての項目の「上がる」に「aufsteigen」という共通の動詞が使われるからこそ面白さがあるわけなので、日本語訳でも全てを同じ動詞で統一したかったのです。でも「聖パウロが現われる」というのだけは、「上がる」にするのは不自然なので、「現われる」としました。(なお注釈を付け加えると、シュミット元首相は片時も煙草を手から離さないチェーンスモーカーで有名だそうです)。
以上、今回の投稿は、「言葉遊び2題」でした。
こういうことに楽しさを感じたり「クスッ」とほほ笑んだりする人、そしてその「クスッ」を誰かと共有したくて一生懸命訳そうとしてみたりするタイプ(私)って、翻訳や語学教師など言葉に関わる仕事をしている人には多いように思います。
皆さんも、日々読むものや聞く言葉の中に「クスッ」とした発見があった時は、是非周りにも広めてみてください。
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2012-12-07 : 23:59 : admin
こんにちは、Serenaです。仕事ではビジネス関連の翻訳をしていますが、二年ほど前から、文芸翻訳の勉強も続けています。月一回の英米文学翻訳勉強会に参加したり、大学で行われている翻訳演習を聴講したり、また独学でさまざまな「翻訳」をキーワードとする参考書を読んだりしてます。こうした勉強を通して、実際に自分の英語力がどれほど向上したかというとはなはだ心もとないのですが、一つ言えることは、「翻訳」という作業を実践することによって「読書の愉しみ方をあらためて知った」ということです。
月一回の勉強会も、大学での翻訳演習も、基本的な授業の進め方は同じです。先生から出された課題の作品を受講生があらかじめ訳していき、順番に自分の訳を読み上げていって、先生の講評や解説をいただくという形式で進んでいきます。当然、受講している全員が、「正しい翻訳」を目指して訳文を作っていくわけですが、これまた当然なことに、二十人いれば二十通りの訳文が出来上がってくるわけです。そしてそれら全てが「正しい」訳なのです。(明らかな意味の取り違えによる誤訳は別ですが。)
ひとつ、実際に課題として訳している作品の中から例を挙げてみます。
They sat on a bench in the Parc Monceau for a long time without speaking to one another.
これはイギリスの作家、グレアム・グリーン(Greham Greene)による”Two gentle people”という短編の書き出しの部分ですが、この”They"を「彼らは」と訳すべきか、「二人は」(読み進めていけば、二人という人数はいずれ明らかになる)と訳すべきか?どちらも間違いではありません。また ”sat on a bench…without speaking to one another” は「ベンチに座っていたが…互いに口を聞かなかった」なのか「同じベンチに腰を下ろしたまま…話をしなかった」なのか。”a bench” の ”a”という定冠詞は特に訳出する必要はないけれども、「一台のベンチ」=「同じベンチ」に長いこと腰を下ろしていながら、全く話をしない二人、というニュアンスを前面に出す方がより原文のニュアンスに近いと翻訳者が判断すれば、後者のような訳し方になるでしょう。
ひとつの作品の原文は、当たり前ですがひとつしかありません。(作家が何度も書き直して、結局どれが決定版だったのかわからない、という場合もあるかもしれませんが、普通はひとつしかないですよね。)その原文に向き合って、翻訳者が解釈(interpret)し― すなわち、作品の中に「inter」して(入り込んで)」作品の中身を「pret(つかむ)」努力をし― その結果として得られた作品の本質を別の言語に移しかえようとするのが、「translate(翻訳)」ですが、そうして出てくるものは決してひとつではありません。読者は、同じ作品Aの「翻訳その1」と「翻訳その2」を読めば、おのずから違う印象を受けることになります。さまざまなパターンのうち、いったいどれが、本当に原作者が言いたかったことを正確に表わしているのでしょうか。いったいどれが、作品の世界、空気といったものを正確に伝えているのでしょうか。
翻訳を学ぶ仲間たちの訳文を読むたびに、知らず知らずのうちに沁みついた自分の「思い込み」に気づかされたり、一人で作品を読んでいた時には見落としていた情景に気づかされたりします。だから、ひとつの作品の中にある愉しみや興奮、感動の種類は、読み手と翻訳の組み合わせの数だけあるし、また、読み手の成長と共に、作品の受け止め方も変わってくるのだと思うのです。そう考えると、これまでともすれば「文学作品は原語で味わうのが一番のはず、翻訳したものを読んで受けた印象は、もしかしたら作品が言わんとしていた本質とは無関係かもしれない」という、なかば諦めに似た思いをしていたのは、ずいぶん狭い考えだったと気づきました。遅ればせながら積極的に、古典作品から現代作品まで、色々な国の色々な本を読んでいきたいと思っている今日この頃です。
月一回の勉強会も、大学での翻訳演習も、基本的な授業の進め方は同じです。先生から出された課題の作品を受講生があらかじめ訳していき、順番に自分の訳を読み上げていって、先生の講評や解説をいただくという形式で進んでいきます。当然、受講している全員が、「正しい翻訳」を目指して訳文を作っていくわけですが、これまた当然なことに、二十人いれば二十通りの訳文が出来上がってくるわけです。そしてそれら全てが「正しい」訳なのです。(明らかな意味の取り違えによる誤訳は別ですが。)
ひとつ、実際に課題として訳している作品の中から例を挙げてみます。
They sat on a bench in the Parc Monceau for a long time without speaking to one another.
これはイギリスの作家、グレアム・グリーン(Greham Greene)による”Two gentle people”という短編の書き出しの部分ですが、この”They"を「彼らは」と訳すべきか、「二人は」(読み進めていけば、二人という人数はいずれ明らかになる)と訳すべきか?どちらも間違いではありません。また ”sat on a bench…without speaking to one another” は「ベンチに座っていたが…互いに口を聞かなかった」なのか「同じベンチに腰を下ろしたまま…話をしなかった」なのか。”a bench” の ”a”という定冠詞は特に訳出する必要はないけれども、「一台のベンチ」=「同じベンチ」に長いこと腰を下ろしていながら、全く話をしない二人、というニュアンスを前面に出す方がより原文のニュアンスに近いと翻訳者が判断すれば、後者のような訳し方になるでしょう。
ひとつの作品の原文は、当たり前ですがひとつしかありません。(作家が何度も書き直して、結局どれが決定版だったのかわからない、という場合もあるかもしれませんが、普通はひとつしかないですよね。)その原文に向き合って、翻訳者が解釈(interpret)し― すなわち、作品の中に「inter」して(入り込んで)」作品の中身を「pret(つかむ)」努力をし― その結果として得られた作品の本質を別の言語に移しかえようとするのが、「translate(翻訳)」ですが、そうして出てくるものは決してひとつではありません。読者は、同じ作品Aの「翻訳その1」と「翻訳その2」を読めば、おのずから違う印象を受けることになります。さまざまなパターンのうち、いったいどれが、本当に原作者が言いたかったことを正確に表わしているのでしょうか。いったいどれが、作品の世界、空気といったものを正確に伝えているのでしょうか。
翻訳を学ぶ仲間たちの訳文を読むたびに、知らず知らずのうちに沁みついた自分の「思い込み」に気づかされたり、一人で作品を読んでいた時には見落としていた情景に気づかされたりします。だから、ひとつの作品の中にある愉しみや興奮、感動の種類は、読み手と翻訳の組み合わせの数だけあるし、また、読み手の成長と共に、作品の受け止め方も変わってくるのだと思うのです。そう考えると、これまでともすれば「文学作品は原語で味わうのが一番のはず、翻訳したものを読んで受けた印象は、もしかしたら作品が言わんとしていた本質とは無関係かもしれない」という、なかば諦めに似た思いをしていたのは、ずいぶん狭い考えだったと気づきました。遅ればせながら積極的に、古典作品から現代作品まで、色々な国の色々な本を読んでいきたいと思っている今日この頃です。
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2012-06-26 : 14:15 : admin
# 翻訳コンニャク
こんにちは、Serenaです。
久しぶりにゲスト投稿のお声をかけていただきました。今日は、日々の勉強の中で感じたことをお話したいと思います。
翻訳の仕事を続けるには、自分の得意分野を増やしていく努力も必要ですよね。そんなわけで最近、自分が以前から興味を持っている「現代アート」や「ポップカルチャー」に関する文章を、何の言語で書かれているかに関わらずなるべく幅広く読むように心がけています。(…といってももちろん、何語でもOKというわけはありません。日本語以外ではドイツ語か英語かイタリア語で読むわけです。)また、ちょうど良いタイミングで「日本のデザインや創造力を世界がどうみているか」を一貫してテーマに据えた翻訳講座を見つけたので、それにも参加しています。
先日読んだ数冊の本には、日本で生まれたマンガや、「ポケモン」「遊戯王」といったゲームは、いまや欧米の若者の間でも大人気だ、という内容のことが書かれていました。でも、そもそも日本にいながらこれまでほとんどアニメやマンガに触れたことがない私にとっては未知の世界。遊戯王?ポケモン??何がそんなに面白いのだろう???と頭の中がクエスチョンマークだらけになってしまいました。1950年代から1960年代にかけて制作された日本の「ゴジラ」や「マッハGoGoGo」といったアニメ作品はアメリカにも紹介され、すでに当時人気を得ていたそうです。ただしその人気が一過性のブームに過ぎなかったのに比べると、今日の日本のポップカルチャー、特にアニメやマンガ、ゲームは、はるかに深く欧米に浸透しているということです。アメリカでは2002年に「少年ジャンプ」が発刊されたのですが、その体裁は日本のマンガと同じく「右とじ」で、ページ内のコマも右上から左下に向かって読み進める形になっています。効果音なども日本のマンガに書かれている「音」をできるだけそのまま伝えるように工夫しているのだそうです。つまり、もともと英語にはなかったオノマトペを造語したりしているらしいのです。
そういえば10年以上前、友人とイタリアに行ったとき、列車内で前の席にすわっていたイタリア人の若いお兄ちゃんが、友人の取り出した「ドラえもん」のマンガに気づき、目をらんらんと輝かせて何やらまくしたて、自分のリュックから日本のマンガのイタリア語版を取り出して見せてくれたことがありました。思えばずいぶん前から日本のマンガやアニメは海外に進出していたのですね。試しにYouTubeで日本のアニメを検索してみたら、イタリア語で「アルプスの少女ハイジ」や「キャンディキャンディ」といった懐かしのアニメが見られました。(ついでに付け加えると、「モーニング娘。」や「AKB48」の動画に対するコメント欄では、世界中のファンが英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語などさまざまな言語で交流し、盛り上がっているようです。)
今日の欧米の若者たちは幼いうちから日本のアニメやゲームといったファンタジー商品に親しみ、それらが創り出す空想の世界に浸り、想像力を育まれてきたわけです。ですから彼らは、日本のポップカルチャーが自分たちの国のそれとは異質だとはっきり意識した上で「だからこそ興味を持つ」とか「違いを見つけて面白がる」といったような、ある意味で知的なアプローチをしているわけではないのです。すでにそんなレベルは超え、違いがあることは当然の前提として受容していて、格別に異質だとか異文化だとか意識することなしにマンガやアニメやゲームが繰り広げる架空の世界に入り込み、楽しんでいます。それにしても、日本で制作されるアニメやゲームの、いったい何がそんなに世界の子供たちの心をつかんでいるのでしょうか?
同じ日本語を話す日本人同士でも、私のようにカードゲームのルールや遊び方とかが「さっぱりわからない、お手上げ!」状態の人間にとっては、ゲーム好きの若者に何を言われてもチンプンカンプンです。たとえ出身の国や話す言語が違っても「小さい時にポケモンにはまったよなー」「ハイジが大好きだったの」などと「想像世界のふるさと」を共有できる者同士の方が、よっぽど分かりあえるでしょうね。もしかしてイタリア人と日本人の会話で「‘どこでもドア’欲しいよなー」「まったくだよ」なんていうたとえが、説明抜きでサラッと通じたりする日も近い、いや、すでに若者世代では通じているのでしょうか?
以上、まとめると「翻訳の仕事をしているとしばしば未知の世界のことを調べなければならず、大変な労力がいるけれど、自分の関心がいろいろな方向に広がるのが楽しくもある」というお話でした。(楽しい、とでも思わないと、たとえ興味があっても日々の勉強の努力をなかなか続けられないというのもあります……。この記事のタイトルにした「翻訳コンニャク」っていうのが、ドラえもん道具にはあるらしいですね。食べるとどんな言語でも理解できてしゃべれるようになるとか。欲しいけれど、出回ると困りますね。仕事が無くなる!)
久しぶりにゲスト投稿のお声をかけていただきました。今日は、日々の勉強の中で感じたことをお話したいと思います。
翻訳の仕事を続けるには、自分の得意分野を増やしていく努力も必要ですよね。そんなわけで最近、自分が以前から興味を持っている「現代アート」や「ポップカルチャー」に関する文章を、何の言語で書かれているかに関わらずなるべく幅広く読むように心がけています。(…といってももちろん、何語でもOKというわけはありません。日本語以外ではドイツ語か英語かイタリア語で読むわけです。)また、ちょうど良いタイミングで「日本のデザインや創造力を世界がどうみているか」を一貫してテーマに据えた翻訳講座を見つけたので、それにも参加しています。
先日読んだ数冊の本には、日本で生まれたマンガや、「ポケモン」「遊戯王」といったゲームは、いまや欧米の若者の間でも大人気だ、という内容のことが書かれていました。でも、そもそも日本にいながらこれまでほとんどアニメやマンガに触れたことがない私にとっては未知の世界。遊戯王?ポケモン??何がそんなに面白いのだろう???と頭の中がクエスチョンマークだらけになってしまいました。1950年代から1960年代にかけて制作された日本の「ゴジラ」や「マッハGoGoGo」といったアニメ作品はアメリカにも紹介され、すでに当時人気を得ていたそうです。ただしその人気が一過性のブームに過ぎなかったのに比べると、今日の日本のポップカルチャー、特にアニメやマンガ、ゲームは、はるかに深く欧米に浸透しているということです。アメリカでは2002年に「少年ジャンプ」が発刊されたのですが、その体裁は日本のマンガと同じく「右とじ」で、ページ内のコマも右上から左下に向かって読み進める形になっています。効果音なども日本のマンガに書かれている「音」をできるだけそのまま伝えるように工夫しているのだそうです。つまり、もともと英語にはなかったオノマトペを造語したりしているらしいのです。
そういえば10年以上前、友人とイタリアに行ったとき、列車内で前の席にすわっていたイタリア人の若いお兄ちゃんが、友人の取り出した「ドラえもん」のマンガに気づき、目をらんらんと輝かせて何やらまくしたて、自分のリュックから日本のマンガのイタリア語版を取り出して見せてくれたことがありました。思えばずいぶん前から日本のマンガやアニメは海外に進出していたのですね。試しにYouTubeで日本のアニメを検索してみたら、イタリア語で「アルプスの少女ハイジ」や「キャンディキャンディ」といった懐かしのアニメが見られました。(ついでに付け加えると、「モーニング娘。」や「AKB48」の動画に対するコメント欄では、世界中のファンが英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語などさまざまな言語で交流し、盛り上がっているようです。)
今日の欧米の若者たちは幼いうちから日本のアニメやゲームといったファンタジー商品に親しみ、それらが創り出す空想の世界に浸り、想像力を育まれてきたわけです。ですから彼らは、日本のポップカルチャーが自分たちの国のそれとは異質だとはっきり意識した上で「だからこそ興味を持つ」とか「違いを見つけて面白がる」といったような、ある意味で知的なアプローチをしているわけではないのです。すでにそんなレベルは超え、違いがあることは当然の前提として受容していて、格別に異質だとか異文化だとか意識することなしにマンガやアニメやゲームが繰り広げる架空の世界に入り込み、楽しんでいます。それにしても、日本で制作されるアニメやゲームの、いったい何がそんなに世界の子供たちの心をつかんでいるのでしょうか?
同じ日本語を話す日本人同士でも、私のようにカードゲームのルールや遊び方とかが「さっぱりわからない、お手上げ!」状態の人間にとっては、ゲーム好きの若者に何を言われてもチンプンカンプンです。たとえ出身の国や話す言語が違っても「小さい時にポケモンにはまったよなー」「ハイジが大好きだったの」などと「想像世界のふるさと」を共有できる者同士の方が、よっぽど分かりあえるでしょうね。もしかしてイタリア人と日本人の会話で「‘どこでもドア’欲しいよなー」「まったくだよ」なんていうたとえが、説明抜きでサラッと通じたりする日も近い、いや、すでに若者世代では通じているのでしょうか?
以上、まとめると「翻訳の仕事をしているとしばしば未知の世界のことを調べなければならず、大変な労力がいるけれど、自分の関心がいろいろな方向に広がるのが楽しくもある」というお話でした。(楽しい、とでも思わないと、たとえ興味があっても日々の勉強の努力をなかなか続けられないというのもあります……。この記事のタイトルにした「翻訳コンニャク」っていうのが、ドラえもん道具にはあるらしいですね。食べるとどんな言語でも理解できてしゃべれるようになるとか。欲しいけれど、出回ると困りますね。仕事が無くなる!)
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2011-10-25 : 12:30 : admin
こんにちは、Serenaです。英語、ドイツ語、イタリア語のフリーランス翻訳者をしております。SWIFTメンバーズブログには時々こうやってゲストとして参加させていただいています。
今日は9月27日付のTokoさんの記事「マニュアル・ワールド」から連想したことを投稿させていただきます。Tokoさんはこの記事について「言語・異文化・多国籍」関連というブログのテーマからは外れてしまう…と書いていらっしゃいましたが、少なくとも私には「言語」について日ごろ自分が感じていることと重なる点が感じられました。「ハンバーガー20個を買った客に対して店員が「お持ち帰りですか?」とマニュアル通りの確認の質問をし、思わずその客は絶句していた…」という内容の記事です。全国展開のチェーン店で一定以上のサービスを提供するためには、とりあえずアルバイトへの教育は「決まり文句を体に覚えさせる」という方法をとっているのでしょう。(かのチェーンでは店員に徹底して接客用語(と、スマイル^^)を反復練習させる、と聞いたことがあります。)ただ、それらの決まり文句は何のためにあるかというと、あくまでもお客様が気分よく買物できるようにする(=Tokoさんの言う「どの店舗でも均一のサービスが期待できるという安心」を与える)というのが目的のはず。マニュアルにあるから、ではなく、それらをきちんと自分が発する「ことば」として目の前の相手に差し出す、という意識を頭の片隅に持っていてほしいものです。(もちろん職業病?として、口が勝手に動いてその場にはそぐわない決まり文句が飛び出した、ということはあるでしょうが、まあその時はお客さんと目を合わせて笑ってしまう、くらいの余裕があれば…。)
一方、「丸暗記」が威力を発揮するのは外国語の勉強です。「買物」「道をたずねる」といった場面別の会話パターンを、とにかく反復して音読し覚えておくことは大変役立ちます。いくらゆっくりと話されていても、知らない単語が使われている文章は意味がわかりませんが、自然なスピードで話されている海外ニュースやドラマでも、自分の頭に入っている単語を使った表現が出てくれば、その部分だけスッと聞き取れたりします。それはその単語の音やリズムが自分の身に入っているからでしょう。もともと自分の身についている母国語とは異なる言語を学び、多少なりとも伝達手段として使えるようになるための一つの方法としては、文章をまるごと覚えることでその外国語の持つ「思考体系」ごと頭に入れることが有効ではないでしょうか。(とはいえ、実際に海外に居るという状況でもないかぎり、色々な場面を想定して表現を暗記するという気力を維持するのは正直大変ですが。)
言葉に関わる仕事をしている者として、翻訳をする際には元の言語が「伝えようとしていること」の中身を理解し、それを届けるべき相手に「伝わることば」で渡そうという気持ちを忘れずにいたいものです。そのためには、ふだん日本語を話している時も一語一語を大切にしなければ、と思っています。
今日は9月27日付のTokoさんの記事「マニュアル・ワールド」から連想したことを投稿させていただきます。Tokoさんはこの記事について「言語・異文化・多国籍」関連というブログのテーマからは外れてしまう…と書いていらっしゃいましたが、少なくとも私には「言語」について日ごろ自分が感じていることと重なる点が感じられました。「ハンバーガー20個を買った客に対して店員が「お持ち帰りですか?」とマニュアル通りの確認の質問をし、思わずその客は絶句していた…」という内容の記事です。全国展開のチェーン店で一定以上のサービスを提供するためには、とりあえずアルバイトへの教育は「決まり文句を体に覚えさせる」という方法をとっているのでしょう。(かのチェーンでは店員に徹底して接客用語(と、スマイル^^)を反復練習させる、と聞いたことがあります。)ただ、それらの決まり文句は何のためにあるかというと、あくまでもお客様が気分よく買物できるようにする(=Tokoさんの言う「どの店舗でも均一のサービスが期待できるという安心」を与える)というのが目的のはず。マニュアルにあるから、ではなく、それらをきちんと自分が発する「ことば」として目の前の相手に差し出す、という意識を頭の片隅に持っていてほしいものです。(もちろん職業病?として、口が勝手に動いてその場にはそぐわない決まり文句が飛び出した、ということはあるでしょうが、まあその時はお客さんと目を合わせて笑ってしまう、くらいの余裕があれば…。)
一方、「丸暗記」が威力を発揮するのは外国語の勉強です。「買物」「道をたずねる」といった場面別の会話パターンを、とにかく反復して音読し覚えておくことは大変役立ちます。いくらゆっくりと話されていても、知らない単語が使われている文章は意味がわかりませんが、自然なスピードで話されている海外ニュースやドラマでも、自分の頭に入っている単語を使った表現が出てくれば、その部分だけスッと聞き取れたりします。それはその単語の音やリズムが自分の身に入っているからでしょう。もともと自分の身についている母国語とは異なる言語を学び、多少なりとも伝達手段として使えるようになるための一つの方法としては、文章をまるごと覚えることでその外国語の持つ「思考体系」ごと頭に入れることが有効ではないでしょうか。(とはいえ、実際に海外に居るという状況でもないかぎり、色々な場面を想定して表現を暗記するという気力を維持するのは正直大変ですが。)
言葉に関わる仕事をしている者として、翻訳をする際には元の言語が「伝えようとしていること」の中身を理解し、それを届けるべき相手に「伝わることば」で渡そうという気持ちを忘れずにいたいものです。そのためには、ふだん日本語を話している時も一語一語を大切にしなければ、と思っています。
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2010-05-11 : 11:20 : admin
こんにちは、Serenaです。今日は、外国語を学ぶ人にとって(日本語を学ぶ人にとっても)難しいと思われる、二人称についてお話してみます。
「あなた」を意味する表現は、ドイツ語では「Sie」か「du」、イタリア語では「Lei」か「tu」の二通りあります。それぞれ前者は相手の身分が上だったり相手と距離を置きたい場合に使う「敬称」、後者は親しい間柄で使う「親称」です。どう使い分けるかはドイツとイタリアで違い、それぞれの国内でも地域によって異なると思います。大学のドイツ語授業では「親しくない相手や目上の人には敬称を使う」と教わりましたが、そう理屈どおりにはいきません。ちなみに「神(Gott)」に対しては親称「du」を用いて話しかける(祈る?)そうです。
私自身の経験では、ドイツでは友人の母親に「最近は初対面でも、年齢が離れている者同士でもduを使うことが多いのよ、あなた(du)も私にduで話しかけてね」と言われたかと思えば、ユースホステルで同室になった年配の女性は学生の私に対して終始、Sieを使っていました。ビジネスの世界では全面的に敬称が一般的かと思いきや、とあるドイツ系企業では重役から社員、社員から重役は「du」でよくて、でも創立者である会長に話しかける時だけは皆が揃って「Sie」を使っていました。しかも敬称である「Sie」を使っているのに「Mr.…」ではなくてファーストネームで呼びかけるという、なんとも不思議な暗黙の了解がありました。
またイタリア語会話教室では「全員tuで」というのが主流らしく、先生や、親子ほど年齢の離れた生徒同士でも互いに親称を使い、ファーストネームで呼び合います。ただし休憩時間に日本語で話す段になると「…(ファーストネーム)さんは○○でいらっしゃいますか?」などと敬語を使うという、ちょっと独特の光景になります。
ただでさえ不自由な外国語を話す時、特に初対面の相手には「失礼にあたらないように」との気遣いから「Sie」とか「Lei」で話しかけるとします。その時に相手が「du(tu)で行こうよ」と即座に提案してくれたらいいですが、「この人は自分と距離を置きたがっているんだな」と誤解されてしまっては悲しいですね。
でも精一杯誠意を見せて、相手の言っていることがわからなければ恥ずかしがらずに聞き返す、という心がけでいれば、たとえ肩肘張ったような敬語を使っていたとしても、「この人は言葉が不自由なだけだ」とわかってくれる、はず。…というわけで「即座に場面に応じた微妙な判断ができ、しかも主語が敬称か親称かによって変化する動詞の活用まで使いこなす」と高すぎる目標を掲げるのは、とうに諦めている私です。
世界中の言語には、やっぱり敬称と親称があるのでしょうか?SWIFTに関わっている皆さんの使用言語について、いろいろ面白い特徴をお聞きしたいです。
「あなた」を意味する表現は、ドイツ語では「Sie」か「du」、イタリア語では「Lei」か「tu」の二通りあります。それぞれ前者は相手の身分が上だったり相手と距離を置きたい場合に使う「敬称」、後者は親しい間柄で使う「親称」です。どう使い分けるかはドイツとイタリアで違い、それぞれの国内でも地域によって異なると思います。大学のドイツ語授業では「親しくない相手や目上の人には敬称を使う」と教わりましたが、そう理屈どおりにはいきません。ちなみに「神(Gott)」に対しては親称「du」を用いて話しかける(祈る?)そうです。
私自身の経験では、ドイツでは友人の母親に「最近は初対面でも、年齢が離れている者同士でもduを使うことが多いのよ、あなた(du)も私にduで話しかけてね」と言われたかと思えば、ユースホステルで同室になった年配の女性は学生の私に対して終始、Sieを使っていました。ビジネスの世界では全面的に敬称が一般的かと思いきや、とあるドイツ系企業では重役から社員、社員から重役は「du」でよくて、でも創立者である会長に話しかける時だけは皆が揃って「Sie」を使っていました。しかも敬称である「Sie」を使っているのに「Mr.…」ではなくてファーストネームで呼びかけるという、なんとも不思議な暗黙の了解がありました。
またイタリア語会話教室では「全員tuで」というのが主流らしく、先生や、親子ほど年齢の離れた生徒同士でも互いに親称を使い、ファーストネームで呼び合います。ただし休憩時間に日本語で話す段になると「…(ファーストネーム)さんは○○でいらっしゃいますか?」などと敬語を使うという、ちょっと独特の光景になります。
ただでさえ不自由な外国語を話す時、特に初対面の相手には「失礼にあたらないように」との気遣いから「Sie」とか「Lei」で話しかけるとします。その時に相手が「du(tu)で行こうよ」と即座に提案してくれたらいいですが、「この人は自分と距離を置きたがっているんだな」と誤解されてしまっては悲しいですね。
でも精一杯誠意を見せて、相手の言っていることがわからなければ恥ずかしがらずに聞き返す、という心がけでいれば、たとえ肩肘張ったような敬語を使っていたとしても、「この人は言葉が不自由なだけだ」とわかってくれる、はず。…というわけで「即座に場面に応じた微妙な判断ができ、しかも主語が敬称か親称かによって変化する動詞の活用まで使いこなす」と高すぎる目標を掲げるのは、とうに諦めている私です。
世界中の言語には、やっぱり敬称と親称があるのでしょうか?SWIFTに関わっている皆さんの使用言語について、いろいろ面白い特徴をお聞きしたいです。
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2010-04-25 : 13:11 : admin
こんにちは、Serenaです。
今日はドイツ語を例にとって、
翻訳の際 に私が考えることを書き綴ってみます。
ドイツ語に限らず、原文を解きほぐす作業をしながらいつも悩むのは
「いかにして原文の雰囲気を保ったままで分りやすい日本語に訳すか」
ということです。ドイツ語の文章と日本語の文章の大きな違いは、
ドイツ語では一つの文章が長いということでしょう。
あるドイツ語の一文を頭から逐語訳してみます。
「 ドイツ国内にはおよそ1300のビール醸造工場があり、
そこでは4つの原材料−水、モルツ、酵母、ホップから
5000種類以上のビールを製造していることを考えるとき、
人はこう信じるはずだ、
それら全部はきわめて同じような味がするに違いないと。 」
(原文)
Wenn man bedenkt, das es in Deutschland ca. 1300 Brauereien gibt, die mit den vier Inhaltsstoffen Wasser, Malz, Hefe und Hopfen etwa 5000 verschiedene Biere herstellen, sollte man doch glauben, das alle so ziemlich gleich schmecken mussten.
―ドイツ語では一文ですが、頭から読み下せば
言わんとしている内容はすんなり頭に入ります。
しかし、読み下しをそのまま日本語にしたら回りくどく、
良い文章とは言えません。
原文が言わんとしている内容を自然な日本語で表すとしたら、
次のようになるでしょう。
「 ドイツ国内にはおよそ1300のビール醸造工場があり、
合わせて5000種類以上のビールが製造されている。
だが全てのビールが水、モルツ、酵母、ホップという
共通する4つの原材料から作られることを考えれば、
全部きわめて同じような味がするはずだと誰しも考えるだろう。 」
論旨の展開の順序どおりにカンマで区切られた節が積み重ねられていく、
というドイツ語の文章の作りは、
ドイツ語の思考体系をそのまま具現化しているとも言えます。
ということは、これを日本語にするときに句点で区切ったりして
「わかりやすく」してしまうことは、
極端に言えば原文が内包する思考体系にまで手を加えてしまうことに
なるのではないか。
より優れた翻訳とは、それを読む者に原文固有の思考体系まで含めて
伝達するものであるべきでは?…いつも頭をよぎる悩みです。
原文はたった一つなのに、翻訳文は翻訳者の数だけあります。
「 これは是非あの人に訳してほしい 」 と指名してもらえるような
翻訳者になるべく、精進していきたいと思います。
ブログに書く文章を考えることは私にとって日本語の練習でもあります。
どうぞこれからも時々お付き合いください。
今日はドイツ語を例にとって、
翻訳の際 に私が考えることを書き綴ってみます。
ドイツ語に限らず、原文を解きほぐす作業をしながらいつも悩むのは
「いかにして原文の雰囲気を保ったままで分りやすい日本語に訳すか」
ということです。ドイツ語の文章と日本語の文章の大きな違いは、
ドイツ語では一つの文章が長いということでしょう。
あるドイツ語の一文を頭から逐語訳してみます。
「 ドイツ国内にはおよそ1300のビール醸造工場があり、
そこでは4つの原材料−水、モルツ、酵母、ホップから
5000種類以上のビールを製造していることを考えるとき、
人はこう信じるはずだ、
それら全部はきわめて同じような味がするに違いないと。 」
(原文)
Wenn man bedenkt, das es in Deutschland ca. 1300 Brauereien gibt, die mit den vier Inhaltsstoffen Wasser, Malz, Hefe und Hopfen etwa 5000 verschiedene Biere herstellen, sollte man doch glauben, das alle so ziemlich gleich schmecken mussten.
―ドイツ語では一文ですが、頭から読み下せば
言わんとしている内容はすんなり頭に入ります。
しかし、読み下しをそのまま日本語にしたら回りくどく、
良い文章とは言えません。
原文が言わんとしている内容を自然な日本語で表すとしたら、
次のようになるでしょう。
「 ドイツ国内にはおよそ1300のビール醸造工場があり、
合わせて5000種類以上のビールが製造されている。
だが全てのビールが水、モルツ、酵母、ホップという
共通する4つの原材料から作られることを考えれば、
全部きわめて同じような味がするはずだと誰しも考えるだろう。 」
論旨の展開の順序どおりにカンマで区切られた節が積み重ねられていく、
というドイツ語の文章の作りは、
ドイツ語の思考体系をそのまま具現化しているとも言えます。
ということは、これを日本語にするときに句点で区切ったりして
「わかりやすく」してしまうことは、
極端に言えば原文が内包する思考体系にまで手を加えてしまうことに
なるのではないか。
より優れた翻訳とは、それを読む者に原文固有の思考体系まで含めて
伝達するものであるべきでは?…いつも頭をよぎる悩みです。
原文はたった一つなのに、翻訳文は翻訳者の数だけあります。
「 これは是非あの人に訳してほしい 」 と指名してもらえるような
翻訳者になるべく、精進していきたいと思います。
ブログに書く文章を考えることは私にとって日本語の練習でもあります。
どうぞこれからも時々お付き合いください。
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2010-04-04 : 09:00 : admin
こんにちは、昨日に引き続き Serenaです。
先日、イタリア語と英語の文法を同義の短文を使って
比較するセミナーを受講しました。
そこで先生がおっしゃったのが、
日本語の「…できる」という意味合いを表すイタリア語は4つある、
ということ。
potere (英語のcan、「…できる(状態、状況にある)」)
sapere(英語のbe able to、「…をすることが可能だ」)
riusire a ...(英語のto manage to、「あることを(いわば運よく)できる」)
以上3つはイタリア語を勉強している人ならすぐに思い浮かべられる単語。
でも全部で4つあるって…あと1つは?…と思いめぐらしていたら、
volereも「…できる」のニュアンスを含む意味合いを表わすのに使う、
とのこと。このvolereというのは、これまでに習ってきた限りでは
英語のto want、want to…、にあたるはずなのです。
むむ、どういうこと?…とすぐには先生の言葉を理解できずにいたら−。
たとえば食事に招かれて「トマトもどうぞ」と勧められたとします。
自分は他のものは食べるが、実はトマトは食べられない。だから断りたい。
こういう場合、「トマト食べられないんです。」と言いますよね。
この、「トマトを食べることができない」(=「できる」の否定)という
ニュアンスを表す時、イタリア語ではvolereを使うというのです。
Non voglio mangiare il pomodoro.
(voglioは動詞volereの変化形、英語に当てはめると
Not want eat the tomato.)
これまで、volereは「…したい」という意味だから、
その否定形を使うと「…したくない」だととらえていた私。
だから上記の文では「トマトは食べたくありません」という、
強くてちょっと失礼な言い方になると思っていました。
でもたしかに「食べられないんです」は
「食べることができない状況にある」でもなければ、
「不可能だ」というわけでもないですものね。
だから、canやbe able toを使うのは違うわけか、なるほど、と納得。
ただし英語に置き換えて考えた場合、
"I don't want tomatoes, thank you."と
少なくとも"thank you"を付け加えておいた方が
礼儀としては正しい気がします。
だったら、イタリア語で言う際にも
"Grazie, ma non voglio mangiare il pomodoro"
のように「ありがとう、でも…」を冒頭につければ、
自分も躊躇せずに口に出せるかな、などと思いました。
こんな風に、言い方に迷った時に他の外国語だとどういうんだろう、
と考えてみるとちょっとしたヒントが見つかることがありますよね。
このブログをお読みになっている皆さんも、
思い当たるのではないでしょうか。
先日、イタリア語と英語の文法を同義の短文を使って
比較するセミナーを受講しました。
そこで先生がおっしゃったのが、
日本語の「…できる」という意味合いを表すイタリア語は4つある、
ということ。
potere (英語のcan、「…できる(状態、状況にある)」)
sapere(英語のbe able to、「…をすることが可能だ」)
riusire a ...(英語のto manage to、「あることを(いわば運よく)できる」)
以上3つはイタリア語を勉強している人ならすぐに思い浮かべられる単語。
でも全部で4つあるって…あと1つは?…と思いめぐらしていたら、
volereも「…できる」のニュアンスを含む意味合いを表わすのに使う、
とのこと。このvolereというのは、これまでに習ってきた限りでは
英語のto want、want to…、にあたるはずなのです。
むむ、どういうこと?…とすぐには先生の言葉を理解できずにいたら−。
たとえば食事に招かれて「トマトもどうぞ」と勧められたとします。
自分は他のものは食べるが、実はトマトは食べられない。だから断りたい。
こういう場合、「トマト食べられないんです。」と言いますよね。
この、「トマトを食べることができない」(=「できる」の否定)という
ニュアンスを表す時、イタリア語ではvolereを使うというのです。
Non voglio mangiare il pomodoro.
(voglioは動詞volereの変化形、英語に当てはめると
Not want eat the tomato.)
これまで、volereは「…したい」という意味だから、
その否定形を使うと「…したくない」だととらえていた私。
だから上記の文では「トマトは食べたくありません」という、
強くてちょっと失礼な言い方になると思っていました。
でもたしかに「食べられないんです」は
「食べることができない状況にある」でもなければ、
「不可能だ」というわけでもないですものね。
だから、canやbe able toを使うのは違うわけか、なるほど、と納得。
ただし英語に置き換えて考えた場合、
"I don't want tomatoes, thank you."と
少なくとも"thank you"を付け加えておいた方が
礼儀としては正しい気がします。
だったら、イタリア語で言う際にも
"Grazie, ma non voglio mangiare il pomodoro"
のように「ありがとう、でも…」を冒頭につければ、
自分も躊躇せずに口に出せるかな、などと思いました。
こんな風に、言い方に迷った時に他の外国語だとどういうんだろう、
と考えてみるとちょっとしたヒントが見つかることがありますよね。
このブログをお読みになっている皆さんも、
思い当たるのではないでしょうか。
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2010-04-03 : 09:00 : admin
こんにちは、Serenaと申します。現在フリーランス翻訳者として、
いくつかの会社から不定期にお仕事をいただいています。
使用言語は英語、ドイツ語、イタリア語です。
TOKOさんにお誘いいただき、
これから時々ブログに寄稿させていただくことになりました。
複数の言語を学んでいて感じることなどを
折にふれ綴っていきたいと思います。
「3カ国語もできるんですか?」と驚かれることがよくあります。
でも白状するとどの言語も「ちょっとこれ訳して」と言われた時に
サラサラと口頭で訳せるようなレベルではなく、
毎回、仕事を通して必死で勉強している感じです。
もともと大して強い動機もなく大学のドイツ文学科に入学、
その後、声楽を習い出すと同時にイタリア語を始めました。
今では一番好きなのはイタリア語です。
ところがリズムや音が大好きなので
音を聞いているだけで嬉しくなってしまい、
意味がわからなくても文法が習得できなくても、
あまり気にとめていませんでした。
ここ最近仕事で翻訳を頼まれるようになってから、
あらためて勉強し直しています。
これからもこの3カ国語はもちろん、
いろいろな言葉を勉強していきたいと思っています。
そして、翻訳を行っていくのになにより一番大事なのは
「日本語力」の増強!
そのためには沢山の文章を読もう、と決意しているところです。
(TOKOさんが3月12日におっしゃっているとおり、
「春になると、なんだか意思表明する気持ちが芽生える」みたいです、
うふふ。)
いくつかの会社から不定期にお仕事をいただいています。
使用言語は英語、ドイツ語、イタリア語です。
TOKOさんにお誘いいただき、
これから時々ブログに寄稿させていただくことになりました。
複数の言語を学んでいて感じることなどを
折にふれ綴っていきたいと思います。
「3カ国語もできるんですか?」と驚かれることがよくあります。
でも白状するとどの言語も「ちょっとこれ訳して」と言われた時に
サラサラと口頭で訳せるようなレベルではなく、
毎回、仕事を通して必死で勉強している感じです。
もともと大して強い動機もなく大学のドイツ文学科に入学、
その後、声楽を習い出すと同時にイタリア語を始めました。
今では一番好きなのはイタリア語です。
ところがリズムや音が大好きなので
音を聞いているだけで嬉しくなってしまい、
意味がわからなくても文法が習得できなくても、
あまり気にとめていませんでした。
ここ最近仕事で翻訳を頼まれるようになってから、
あらためて勉強し直しています。
これからもこの3カ国語はもちろん、
いろいろな言葉を勉強していきたいと思っています。
そして、翻訳を行っていくのになにより一番大事なのは
「日本語力」の増強!
そのためには沢山の文章を読もう、と決意しているところです。
(TOKOさんが3月12日におっしゃっているとおり、
「春になると、なんだか意思表明する気持ちが芽生える」みたいです、
うふふ。)
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2010-03-07 : 19:00 : admin
はじめまして、‘KT’と申します。Tokoさんから寄稿のお誘いを受け、
今日はゲストとして、PEIのテーマで参戦させていただきます!
プリンス・エドワード島(PEI)といえば「赤毛のアン」。
私が初めてその本を手にしたのは、小学校高学年の頃でした…
今と違い、片田舎の小学生が外国に触れる機会など皆無に等しく、
これが日本ではなくカナダという国の話であることさえ
初めのうちは知らなかったように思います。
それでも、私がアンの世界に魅了されるまでに
時間はかかりませんでした。
恋人の小径を散歩して、輝く湖水でボートに乗り、すみれの谷で花を摘む。
アンがダイアナに誤って飲ませてしまった葡萄酒!
おいしそうな料理・お菓子の数々!
登場人物もこの作品の大きな魅力です。
マリラとマシュウのクスバート兄妹にはじまり、
ダイアナ、ギルバート、リンド夫人・・・・・・気が付けば皆アンの虜に。
この本で起きることは、すべてPEIでの出来事です。
「またそんなこと言って〜」と肩を叩かれることを承知の上で
告白しますが、私にとってPEIはある意味「聖地」なのです。
ストーリーそのものだけでなく、村岡花子さんの
アヴォンリーののどかさが目に浮かぶような情景描写と
うつくしい日本語にも心を奪われます。
「翻訳」という言葉を知ったのも…この頃でした。
それから15年。
片田舎の小学生は社会人となり、とある翻訳会社に勤めています。
リンド夫人風に言うと・・・
「いいかいマリラ、あんたにはアンがすべてでしょうがね、
アンと出会っていなかったら、あの子(私です)は今頃
翻訳の仕事に就いていなかったと思いますよ、まったくのところ!」
今日はゲストとして、PEIのテーマで参戦させていただきます!
プリンス・エドワード島(PEI)といえば「赤毛のアン」。
私が初めてその本を手にしたのは、小学校高学年の頃でした…
今と違い、片田舎の小学生が外国に触れる機会など皆無に等しく、
これが日本ではなくカナダという国の話であることさえ
初めのうちは知らなかったように思います。
それでも、私がアンの世界に魅了されるまでに
時間はかかりませんでした。
恋人の小径を散歩して、輝く湖水でボートに乗り、すみれの谷で花を摘む。
アンがダイアナに誤って飲ませてしまった葡萄酒!
おいしそうな料理・お菓子の数々!
登場人物もこの作品の大きな魅力です。
マリラとマシュウのクスバート兄妹にはじまり、
ダイアナ、ギルバート、リンド夫人・・・・・・気が付けば皆アンの虜に。
この本で起きることは、すべてPEIでの出来事です。
「またそんなこと言って〜」と肩を叩かれることを承知の上で
告白しますが、私にとってPEIはある意味「聖地」なのです。
ストーリーそのものだけでなく、村岡花子さんの
アヴォンリーののどかさが目に浮かぶような情景描写と
うつくしい日本語にも心を奪われます。
「翻訳」という言葉を知ったのも…この頃でした。
それから15年。
片田舎の小学生は社会人となり、とある翻訳会社に勤めています。
リンド夫人風に言うと・・・
「いいかいマリラ、あんたにはアンがすべてでしょうがね、
アンと出会っていなかったら、あの子(私です)は今頃
翻訳の仕事に就いていなかったと思いますよ、まったくのところ!」
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