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# ファウスト
Kouです。久しぶりです。

海外に対する日本文化の発信ということが言われて久しいですが、その中でもしばしば取り上げられるのがマンガです。マンガはただ翻訳され、読まれるだけでなく、いろいろな形でリメイクの対象になったりもします。ちょっと前にハリウッドで鳥山明の名作、『ドラゴンボール』が実写化されました(その評価はさておき)。

ただ、マンガ文化は一方的に外国に輸出されているわけではない、という点はもっと注目されてもいいのではないかと思います。実際、いろいろな日本のマンガ家が、外国の文学作品をモチーフにした話を描いています。挙げればきりがないですが、手塚治虫がゲーテの『ファウスト』をモチーフに描いた作品は、いろいろな意味でわたしの頭から離れないものになっています。

『手塚ファウスト(便宜的にこう呼びますが、マンガのタイトルはそのまま「ファウスト」です)』は、面白いことに三つのパターンで書かれています。一つが原作通りの世界観をマンガ化した『手塚ファウスト(1)』、二つ目が、戦国時代の日本を舞台に繰り広げられる『手塚ファウスト(2)』、そして最後が、学園闘争期以降の日本を舞台にした『手塚ファウスト(3)』。

同じモチーフながらも舞台を変えてこれだけ違った面白さを引き出せるものかと、非常に興味深く読んだものでした。これもまた、文化横断的に生まれた「新たな作品」と言えるのではないかと思います。

ただ、惜しむらくは、『手塚ファウスト(3)』は、未完となってしまっていることです。同じ『ファウスト』がモチーフなのだから、やはり結末も同じなのかもしれません。にもかかわらず、続きが大変気になる。これも、「新たな作品」としての魅力を持っているからなのだろうと思っています。本当に、惜しい。

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# 禁断の青(2)
コウです。

先日12月20日の続き。青い食べ物はおいしそうに見えない、というのは本当でしょうか?確かに、日本で青い食べ物を見かけることはあまりありません。ダイエットふりかけのように、青い食べ物がおいしそうに見えないという感覚を逆手に取った商品さえありました。ごはんに青いふりかけをかけることで食欲を減退させ、ダイエットにつなげようという、なんとも言えない商品です。

しかし同時に、いくつかの例外はあると思います。たとえば、日本の食品業界では青色はタブーだったそうですが、そのような事情を知りながら青いパッケージを採用したポカリスエットが、大ヒット商品になったことも事実です。ちなみにわたし、ガリガリ君(ソーダ味)が大好きですし、チョコミントのアイスクリームもよく食べます。

もう一つ気になるのは、アメリカでは(と言い切ってしまってよいのかどうかはわかりませんが)、なぜ青いお菓子やケーキが売られているのでしょうか。また、アメリカの映画やドラマで、しばしば青いケーキが登場するのはなぜなのでしょう。あれはみんな、おいしそうだと思って食べているの?それともデザイン重視?日本のケーキ屋さんでは青色は見たことがありません。

結局、時と場合(と、食べ物の種類)によるという結論に落ち着きそうですが、これは文化と食事、あるいはマーケティングの関係を考える上で、重要なケーススタディになるような気がします。

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# 禁断の青(1)
コウです。

わたし、たまにお弁当を作ります。朝早起きして一通りのものを作る時もあれば、前日の夕食の残りを詰めるだけの時もあります。お弁当の構成を考えながら夕食を作るという、本末転倒な時もあります。

お弁当の世界ではここ数年、キャラ弁なるものが流行っていることは、みなさんもご存じのことかと思います。キャラ弁とは、アニメや漫画などのキャラクターを、お弁当のおかずで造形したり、着色したりして表現するものです。ちなみに、わたしはそこまでやりません。

キャラ弁についてインターネットで調べていると、力作がたくさんでてきます。しかし問題は、「色」なのです。食べ物を使って表現できる色はたくさんあります。たとえば赤は梅干しやトマト、黄色は卵などです。ですが、青だけはどうしても、という場合が多いようです。

自然にはなかなか青い食べ物というものがありません(ちょっと調べてみると、ブルー・マロウというハーブティーはきれいな青色で抽出されていました。わたしは飲んだことはありませんが。)。ですので、青色を表現する場合には、着色料を使用したり、場合によってはブルーハワイ(あの、かき氷に使われているやつ)のシロップを酢飯と合わせて使ったりするそうです。なかなかの力技ですね。

ただ、こうした方法だとあまり身体に良くはなさそうなのと、不自然に青くなってしまうのとで、ナスの色を使って青色を表現しようという試みもなされています。しかし、そのような方法だと紫に近い色になってしまうようで、やはりきれいな青色を出すのは難しそうです。

こういったことから、キャラ弁関係者(?)の間には、「禁断の青」、あるいは「禁断の青キャラ」という言葉もあるようです。つまり、「ドラ○もん」や「忍者ハット○くん」といったキャラクターは作りにくい、ということですね。その上、強引に作ったとしてもおいしそうに見えない。この「おいしそうに見えない」というのが本日のポイントです。(続く)

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# 『蘭学事始(らんがくことはじめ)』が読みたい(9)
「一滴の油を広い池の水に垂らせば、それは拡散して全体に及ぶ。」

それと同じように、はじめは前野良沢、中川淳庵、杉田玄白の三人で思いたった『解体新書』の翻訳をきっかけとして、『蘭学事始』が書かれるまでの50年ほどのあいだに、蘭学は大いに盛んになりました。杉田氏自身は、このように蘭学が盛り上がるとは予想していなかった、と言います。

もちろん、蘭学に関する書物や見解がさまざまに出てくる中には、良いものも悪いものも含まれていたようですが、当初の杉田氏らの志からすれば、それも喜ばしいことであった、ということになるのでしょう。

杉田氏は、蘭学がこれほどまでに広まった原因の一つとして、漢学との性質の違いに着目しています。漢学は「章を飾れる文(おそらく、美しく書くことを目的とする文章、ということでしょうか)」であるためにその広まりが遅かったのに対して、蘭学は「実事を辞書にそのまま記せしもの(事実関係をありのままに示すもの)」であったために迅速に開けていった、という理解です。こうしてみると、蘭学の導入は日本における科学的態度の発端となった、とも言えるのでしょうか。

むろんこうした理解は、当時の日本における漢学の役割を否定するものでもありません。杉田氏は、蘭学が迅速に広まった理由としてもう一つ、先に漢学の流布によって人々の知見が広まっていったことがあったのではないか、とも述べています。

いずれにせよ、杉田氏らが苦労して翻訳した『解体新書』は、現代の日本にもつながる重要な知的態度の創出につながった、といっても言い過ぎではないかと思います。

というわけで、前回「これから下巻です」と言っておきながら、今回が最後です。なぜなら、下巻の多くの部分は人物紹介に費やされていたので。まあ、それはそれでおもしろいので、興味のある方は是非読んでみてください。それではまた。次の連載ネタをどうしようか。

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# 文化圏を観察する―東名高速編―
コウです、こんにちは。
先日、知人の所用にくっついて名古屋に行ってきました。わたしは特に用事があったわけでもないのですが、ちょっと息抜きです。その帰り道、なんのはずみか「全部のパーキング/サービスエリアにとまろう」ということになりました。

こんなに無駄な活動をしたのは久しぶりです。

名古屋からひとつひとつ、合計で20か所以上にとまったでしょうか。
なかなか興味深いものがありました。
各県には、いわゆる「名物」、あるいは「おみやげの主力」のようなものがあることは、ご存じのことかと思います。たとえば、愛知(名古屋?)なら手羽先、ういろう、味噌関係の何か。静岡ならお茶、うなぎ、うなぎパイなど。それぞれに強大な勢力圏を築きあげており、これらのおみやげはかなり広範囲にわたって買い続けることができます。ちなみに赤福も、三重県まで行かずに買うことができました。
逆に、浜名湖ではうなぎや肝の屋台が出ていたり、日本坂(焼津)では魚のお店があったり、あまり他所にはない独自の店舗を出しているところもあります。そちらのほうが、なんだかありがたみがあって購買意欲をそそられます。わたしは日本坂PAで生節(生利節)を買って帰り、家に帰ってからショウガで炊いて食べました。美味。

今は日本中のおみやげを東京駅やら羽田空港で買うことのできる時代ですが、こうしてみると地域の特色というのはやはり強いものです。そしてやはり、こういったおみやげは現地でみてまわるのが楽しいものです。

ついつい、タイトルに「東名高速編」と銘打ってしまいましたが、次の予定はいまのところありません。名古屋から東京まで、10時間以上かかりましたから、終わりの方は結構しんどいものがありました。しかし気力、体力、時間が十分な時に、また別の高速道路でやってみる価値はあると思いました。

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# 『蘭学事始(らんがくことはじめ)』が読みたい(8)
二週間ぶりの『蘭学事始』です。

「誠に艪舵なき船の大海に乗り出せしが如く、茫洋として寄るべきかたなく、たゞあきれにあきれて居たるまでなり。(本当に、艪も舵もない船で大海原に出ていったように、見当もつかない状態でどうすることもできず、ただ茫然としていた。)」

杉田氏は『解体新書』の翻訳を開始した当初の様子を、このように書き記しています。ここでわたしは、最近似たような目にあったことを思い出しました。

なぜかわたしは、ちょっとした用事でイスラエル政府のサイトを閲覧しなければなりませんでした。実は政府公式サイトには英語のページがあるのですが、読み進んでいくうちにやはりというか当然というか、ヘブライ語のページにたどりついてしまいました。

「なんじゃこりゃ。」

感想はこれに尽きます。解読を早々に断念し、英語のページに戻るしかありませんでした。人生で初めて、ヘブライ語が読めずに困った瞬間です。

しかし杉田氏らは、そんなことで作業を放棄するわけにもいきません。オランダ語の助詞やら基本的な単語やらを一通り理解できるようになると、そこからは大量の謎かけです。

「『ウェインブラーウ』は目の上に生えている毛である。」

『ウェインブラーウ』=眉毛です。

「鼻は『フルヘッヘンド』しているものである。木の枝を切ればその後は『フルヘッヘンド』となり、庭を掃除すればゴミが集まって『フルヘッヘンド』となる。」

『フルヘッヘンド』=うずたかい、という意味です。これは、有名な一節ですね。

こんな調子で最初は大いに苦労し、一日かかって一行も理解できなかった日もあったようです。それでも一年ほどたつとだんだんとスムーズに訳出できるようになり、一日に十行ほども読めるようになっていったということですから、その努力と根性には本当に頭が下がります。

さて、ここまで8回にわたってお送りしてきた「『蘭学事始』が読みたい」ですが、ここまでが本編上巻となります。次回から、下巻を読み進めていきたいと思います(わたしが使っている岩波文庫版には両方収録されています)。まだ続くのか・・・

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# 拝復 Toko様(11月16日付の投稿、「タバコの害」に関しまして)
Kouです、お世話になっております。

長らくわたしの「挑戦」をお手伝いいただき、ありがとうございます。おかげさまで、かつては一日一箱ほど吸っていたものが、半分以下に減らすことができております。

しかし、いまだ完全禁煙には至りません。なぜでしょうか?別にTokoさんの圧力(迫力)が不足している、というわけではないのです。むしろ十分です。

かつて世界禁煙デーに関して書いた記事で、禁煙できない理由をいくつか挙げました。意思がないから。根性がないから。吸えばリラックスできるから。習慣的なもの。中毒など。その上で、これらが喫煙者の言い訳にすぎないのだ、ということにも触れました。

Tokoさんもご指摘の通り、カナダではかなり前から喫煙に対して強い規制をかけてきたようで、実はわたしも8年ほど前に、肺がんの写真がパッケージに大きくはられたタバコを、カナダみやげにいただいたことがありました。わたしにタバコをやめてほしいのやら、吸ってほしいのやら。

いずれにせよわたしは、そんな警告を横目にさっさとそのタバコを吸い終わってしまったのでした。どうやらこの手の警告は、効かない人には効かないようです。おそらく、「自分は大丈夫」と思っているタイプです。

これに対して、増税はなかなかの効果をあげていると思います。自身への(財布に対する)ダメージが明白だからでしょうか。本当は身体に対するダメージの方が深刻なんですけどね。

なんにせよ、肺がんの写真なんぞが撮影できるようになったという点では、杉田玄白が『ターヘル・アナトミア』の図解を見て感嘆していたころと比べると大変な変化ですね。医学の進歩とは偉大なものです。というわけで次回、再び「『蘭学事始』が読みたい」に戻ります。

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# 『蘭学事始(らんがくことはじめ)』が読みたい(7)
コウです。一回お休みして、前々回の続き。日本でも蘭学に対する関心が高まり、医療関係者の間でもその重要性が徐々に理解されるようになってきたところからです。ついに『解体新書』の原著である、『ターヘル・アナトミア』を手に入れる時がやってきました。

入手したのは、本草学(今で言う薬学でしょうか)者の中川淳庵でした。杉田氏とともに一読したところ、意味が全く分かりません。しかし、そこに描かれた図の子細なところから、おそらく実際の見聞に拠って書かれたものであろうということを推測しています。加えてそれは、当時中国から伝わっていた説とは大いに異なっていたという点でも、大変興味をそそられるものでもあったのです。

そのような折、千住骨ヶ原という刑場で腑分け(人体解剖)が行なわれるという情報が入ってきます。それで是非、腑分けを見学して『ターヘル・アナトミア』の真偽を確かめてみようということになりました。この腑分けには前野氏も呼ばれています。彼は長崎留学の際に手に入れた、中川氏のものと同版の『ターヘル・アナトミア』を持参しており、その偶然を喜んだということです。

実際に腑分けを目にした結果明らかになったのは、『ターヘル・アナトミア』に描かれた図の驚くべき正確さでした。また、刑場に四散していた人骨についても照合してみたところ、それもまた正確なものであったということです。こうして明らかになった人体図が、これまでの知識とは大きく異なっていたことに、一同驚くとともに、医療に携わるものとして正確な知識を有していなかったことに恥入ったと、当時の心情が描写されています。

そして刑場からの帰り道、杉田氏、中川氏、前野氏はそろって、『ターヘル・アナトミア』の翻訳を決意します。苦難の始まりです。(続く)

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# 新しい言語にまつわる雑感
コウです。

最近ブログに書いている『蘭学事始』の時代とは大きく違い、現在は多くの言語を多くの人が、程度の差こそあれ操れるようになっている時代です。中でも英語が世界的に重要なツールとなっていることは、今さら言うまでもありません。

しかし、世界中の人々が英語を理解できるようになってしまうと、翻訳業は成立しません。その意味では、言語の多様性維持というのは、文化保護の観点のみならず、われわれの雇用保護という観点からも極めて深刻な問題です。

そんな中、朗報が。ちょっと前(10月ぐらい)のことですが、インドの奥地でこれまで知られていなかった新しい言語が発見されたというニュースがありました。コロ語というそうで、アカ語とミジ語と呼ばれる現地語の調査に入っていたチームが発見したとのことでした。

言語学者にとっては心ときめくような発見なのでしょう。が、翻訳者にとってもこれは大変喜ばしいことです。何しろ、言語の差異が広がっていれば広がっているほど、翻訳者の出番は多いわけですからね。もちろん、わたしがコロ語を知っているわけではありませんが。

グローバル化は一面で、世界を均質化していくとも言われますし、その結果としてコロ語もそのうちになくなってしまうのかもしれません。ですが、差異が残り続ける世界だからこそ、こうしたグローバル化がモノやヒト、そして言葉の多様な存在を逆に際立たせるという側面は、もっと強調されてよいと思います。

ちょっと乱暴な言い方になりますが、全員が英語を話していたらわれわれの仕事は成立しませんし、世の中のカフェが全部スタバになったらつまらないですし、世界で単一通貨が生まれてしまえば為替市場は存在しなくなりますし、ヒトの移動が進んで労働賃金が一様になれば生産拠点の海外移転を進める意味もなくなります。

グローバル化が進むことで発生する利益もありますが、個人的には多少の不便さはあっても、差異のある世界のほうが住みごこちがよいというか、楽しみの多い世界だと思います。もちろん、その負の影響を世界レベルに目を向けて論じようとすれば、ことはそんなに単純ではないということも、他面では事実だと思います。新たな言語の発見という記事を読んで、このようなことを思ったのでした。

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# 『蘭学事始(らんがくことはじめ)』が読みたい(6)
コウです。前回はオランダ人に面会して言葉を勉強しようとした前野氏が、通訳に諦めるよう促される、というところまで読み進めました。なぜだったのでしょう?

その通訳は、当時のオランダ語学習の困難について次のように語っています。たとえば、水や酒を「飲む」ということについて尋ねるにしても、茶碗などを持って口につける真似をし、これは何か、と問うしかないと言います。それが相手に理解されれば、「デリンキ(drink)」だということを教えてもらえる、という具合です。

しかし、酒の好き嫌いや、あるいは故郷に思いをめぐらせると言った、心情的な意味を問うとなると、事態はもっと複雑になっていきます。現代に生きるわたしたちは、こうしたことが文化依存的であることもそれなりに知っていますから、他国の言葉を何の背景知識もなく理解しようという作業が、とてつもなく難しいということは想像できます。かの通訳も、「常に和蘭人に朝夕してすら容易に納得し難し(常にオランダ人とともにいるにもかかわらず、簡単には理解できない)」と言うばかりです。

しかし、オランダの文物が伝わっていくにつれ、徐々にその知識を求める動きは強くなっていました。医者であった前野氏も、オランダ伝来の医術に直接ふれたこともあって知的欲求を大いに高めていました。そして今度は、日本人の通訳について懸命に学び、簡単なオランダ語の知識を手に入れることができました。

こうした、大きな知的欲求と、少しばかりのオランダ語の知識が、「解体新書」の翻訳を進める力となっていきます。(続く)

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