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# 翻訳を通して知る、読書の愉しみ
こんにちは、Serenaです。仕事ではビジネス関連の翻訳をしていますが、二年ほど前から、文芸翻訳の勉強も続けています。月一回の英米文学翻訳勉強会に参加したり、大学で行われている翻訳演習を聴講したり、また独学でさまざまな「翻訳」をキーワードとする参考書を読んだりしてます。こうした勉強を通して、実際に自分の英語力がどれほど向上したかというとはなはだ心もとないのですが、一つ言えることは、「翻訳」という作業を実践することによって「読書の愉しみ方をあらためて知った」ということです。

月一回の勉強会も、大学での翻訳演習も、基本的な授業の進め方は同じです。先生から出された課題の作品を受講生があらかじめ訳していき、順番に自分の訳を読み上げていって、先生の講評や解説をいただくという形式で進んでいきます。当然、受講している全員が、「正しい翻訳」を目指して訳文を作っていくわけですが、これまた当然なことに、二十人いれば二十通りの訳文が出来上がってくるわけです。そしてそれら全てが「正しい」訳なのです。(明らかな意味の取り違えによる誤訳は別ですが。)

ひとつ、実際に課題として訳している作品の中から例を挙げてみます。
They sat on a bench in the Parc Monceau for a long time without speaking to one another.
これはイギリスの作家、グレアム・グリーン(Greham Greene)による”Two gentle people”という短編の書き出しの部分ですが、この”They"を「彼らは」と訳すべきか、「二人は」(読み進めていけば、二人という人数はいずれ明らかになる)と訳すべきか?どちらも間違いではありません。また ”sat on a bench…without speaking to one another” は「ベンチに座っていたが…互いに口を聞かなかった」なのか「同じベンチに腰を下ろしたまま…話をしなかった」なのか。”a bench” の ”a”という定冠詞は特に訳出する必要はないけれども、「一台のベンチ」=「同じベンチ」に長いこと腰を下ろしていながら、全く話をしない二人、というニュアンスを前面に出す方がより原文のニュアンスに近いと翻訳者が判断すれば、後者のような訳し方になるでしょう。
 
ひとつの作品の原文は、当たり前ですがひとつしかありません。(作家が何度も書き直して、結局どれが決定版だったのかわからない、という場合もあるかもしれませんが、普通はひとつしかないですよね。)その原文に向き合って、翻訳者が解釈(interpret)し― すなわち、作品の中に「inter」して(入り込んで)」作品の中身を「pret(つかむ)」努力をし― その結果として得られた作品の本質を別の言語に移しかえようとするのが、「translate(翻訳)」ですが、そうして出てくるものは決してひとつではありません。読者は、同じ作品Aの「翻訳その1」と「翻訳その2」を読めば、おのずから違う印象を受けることになります。さまざまなパターンのうち、いったいどれが、本当に原作者が言いたかったことを正確に表わしているのでしょうか。いったいどれが、作品の世界、空気といったものを正確に伝えているのでしょうか。

翻訳を学ぶ仲間たちの訳文を読むたびに、知らず知らずのうちに沁みついた自分の「思い込み」に気づかされたり、一人で作品を読んでいた時には見落としていた情景に気づかされたりします。だから、ひとつの作品の中にある愉しみや興奮、感動の種類は、読み手と翻訳の組み合わせの数だけあるし、また、読み手の成長と共に、作品の受け止め方も変わってくるのだと思うのです。そう考えると、これまでともすれば「文学作品は原語で味わうのが一番のはず、翻訳したものを読んで受けた印象は、もしかしたら作品が言わんとしていた本質とは無関係かもしれない」という、なかば諦めに似た思いをしていたのは、ずいぶん狭い考えだったと気づきました。遅ればせながら積極的に、古典作品から現代作品まで、色々な国の色々な本を読んでいきたいと思っている今日この頃です。

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