2014-08-29 : 23:28 : admin
こんにちは、蓮です。
暫く前に何かの話の折、レイフ・ファインズが出演した英・アルメイダ劇場のシェイクスピア劇『コリオレイナス』について触れたことがあったかと思うのですが、昨夜、京都の劇団「地点」による『コリオレイナス』を見てきました。(別に『コリオレイナス』が殊更好きなわけでも、シェイクスピアリアンなわけでもなく、たまたまです。)
ご存知の方がどの程度いらっしゃるかわかりませんが、地点はかなり実験的な演劇を行っているカンパニーで、そのレパートリーにはチェーホフやアーサー・ミラーといった王道的(?)な戯曲作品もあるものの、近年は、アントナン・アルトーの複数の手紙(『――ところでアルトーさん、』)、あるいは演説や憲法(『CHITENの近現代語』)といった様々なテキストを再構成して作られた作品も多く、その独特な音声/言語/身体意識の元、他にない舞台を作り出す彼らが沙翁の戯曲をやるといっても、一筋縄ではいかないものになるのは明らかなのです。
実験的・前衛的な芝居などというと、とっつきづらいと思われる方も多いかもしれません。一方、古典中の古典、おそらく世界一知られた劇作家であるシェイクスピアの舞台作品も、その由緒正しげなザ・正統派の顔、はたまた教科書を思い出すような堅苦しい印象から、なかなか食指が動かないという向きも。対照的なアプローチとも思える演劇が、あたかも似通った結果を引き寄せかねないこの不思議…。しかし、だからこそ(とはいえないかもしれませんが)、その二つは組み合わせ如何によっては、予想以上の効果を発揮するような気がします。
もちろん、あらゆる類の実験的演劇が、シェイクスピア作品と好相性というわけではないでしょう。しかし今回、地点のシェイクスピアを見て感じたのは、彼らならではの特質が、もしかしたらシェイクスピア作品をとっつき辛くする一因かもしれないポイントをひっくり返しているということです。
特に演劇に慣れていない人にとって、台詞がスラスラ耳に入ってくるかどうかは重要です。映画も同様かもしれませんが、例えば古典作品や時代設定が大昔の作品で、言葉がわかり辛かったり言い回しに馴染みがなかったりすると、台詞がお経と化して眠気を誘いかねません。学生の頃、イギリスでロイヤル・シェイクスピア劇場の舞台を見たのですが、沙翁の時代の英語で上演されていたのでなかなか聞き取れず、芝居の中身が入ってきませんでした。これは言語力の問題ではありますが、たとえ同じ日本語でも、言葉がしっかり自分の中に入ってこないと、舞台全体が漫然と流れて行ってしまうように思います。
地点の芝居はどれもその台詞回しが独特です。端的に言ってしまえば、通常の会話もしくは通常の演劇におけるそれとは全く違う、“ありえない”発話の仕方がされるのです。初めて見る人は特に、非常な違和感を感じるかと思ますが、その違和感故に、台詞に対する聞き手の意識が自然と研ぎ澄まされるのです。言葉の持つ二つの要素、音声と意味の両方が際立って感じられると言ってもいいかもしれません。そのことが、不慣れな人には時に冗漫に聞こえかねない、例えばシェイクスピアのような古典文学の台詞を“聞かせる”ものへと変貌させるのではないか、というのが今回の私の発見でした。
ところでこの作品、元々は2012年に、シェイクスピアの全37作品を37の言語で上演するプロジェクトの一環として制作されたもの。ロンドンのグローブ座で初演の後、更にはロシア・フィンランドでも上演されたそうですが、発話の特異性以前に、そもそも日本語の台詞を解さない海外の観客にどう受け止められたのか、非常に興味の湧くところです。
暫く前に何かの話の折、レイフ・ファインズが出演した英・アルメイダ劇場のシェイクスピア劇『コリオレイナス』について触れたことがあったかと思うのですが、昨夜、京都の劇団「地点」による『コリオレイナス』を見てきました。(別に『コリオレイナス』が殊更好きなわけでも、シェイクスピアリアンなわけでもなく、たまたまです。)
ご存知の方がどの程度いらっしゃるかわかりませんが、地点はかなり実験的な演劇を行っているカンパニーで、そのレパートリーにはチェーホフやアーサー・ミラーといった王道的(?)な戯曲作品もあるものの、近年は、アントナン・アルトーの複数の手紙(『――ところでアルトーさん、』)、あるいは演説や憲法(『CHITENの近現代語』)といった様々なテキストを再構成して作られた作品も多く、その独特な音声/言語/身体意識の元、他にない舞台を作り出す彼らが沙翁の戯曲をやるといっても、一筋縄ではいかないものになるのは明らかなのです。
実験的・前衛的な芝居などというと、とっつきづらいと思われる方も多いかもしれません。一方、古典中の古典、おそらく世界一知られた劇作家であるシェイクスピアの舞台作品も、その由緒正しげなザ・正統派の顔、はたまた教科書を思い出すような堅苦しい印象から、なかなか食指が動かないという向きも。対照的なアプローチとも思える演劇が、あたかも似通った結果を引き寄せかねないこの不思議…。しかし、だからこそ(とはいえないかもしれませんが)、その二つは組み合わせ如何によっては、予想以上の効果を発揮するような気がします。
もちろん、あらゆる類の実験的演劇が、シェイクスピア作品と好相性というわけではないでしょう。しかし今回、地点のシェイクスピアを見て感じたのは、彼らならではの特質が、もしかしたらシェイクスピア作品をとっつき辛くする一因かもしれないポイントをひっくり返しているということです。
特に演劇に慣れていない人にとって、台詞がスラスラ耳に入ってくるかどうかは重要です。映画も同様かもしれませんが、例えば古典作品や時代設定が大昔の作品で、言葉がわかり辛かったり言い回しに馴染みがなかったりすると、台詞がお経と化して眠気を誘いかねません。学生の頃、イギリスでロイヤル・シェイクスピア劇場の舞台を見たのですが、沙翁の時代の英語で上演されていたのでなかなか聞き取れず、芝居の中身が入ってきませんでした。これは言語力の問題ではありますが、たとえ同じ日本語でも、言葉がしっかり自分の中に入ってこないと、舞台全体が漫然と流れて行ってしまうように思います。
地点の芝居はどれもその台詞回しが独特です。端的に言ってしまえば、通常の会話もしくは通常の演劇におけるそれとは全く違う、“ありえない”発話の仕方がされるのです。初めて見る人は特に、非常な違和感を感じるかと思ますが、その違和感故に、台詞に対する聞き手の意識が自然と研ぎ澄まされるのです。言葉の持つ二つの要素、音声と意味の両方が際立って感じられると言ってもいいかもしれません。そのことが、不慣れな人には時に冗漫に聞こえかねない、例えばシェイクスピアのような古典文学の台詞を“聞かせる”ものへと変貌させるのではないか、というのが今回の私の発見でした。
ところでこの作品、元々は2012年に、シェイクスピアの全37作品を37の言語で上演するプロジェクトの一環として制作されたもの。ロンドンのグローブ座で初演の後、更にはロシア・フィンランドでも上演されたそうですが、発話の特異性以前に、そもそも日本語の台詞を解さない海外の観客にどう受け止められたのか、非常に興味の湧くところです。
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